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 イタリア自動車雑貨店公認ログ

太田氏が書くエッセイ「FromItaly」のログをこちらに残して行きます。

お楽しみに!
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 1月28日、土曜日。夜10時過ぎにトリノ空港に到着したときには既に雪が降っていた。低気圧の悪戯ぽいのとは違ってなんか本格的に降り続きそうな予感。ここ数年、冬の寒さにめっきり弱くなった老体を慮れば、このツキのなさはまさに極めつけものだ。積もれば確実に仕事にも影響するし、何より日本向けの貨物の発送がスムーズにいくのかどうかそれが心配だ。空港から市内へ向かうクルマの中で到着早々、僕はこの先の日々を想像しては頭を抱えたい気分に陥った。大雪騒動の始まりだった。

 翌朝、日曜日。ベッドの中から外の様子に耳を澄ませる。雪の朝に特徴的なあの妙な静けさがないか、それを感じ取ろうと聴覚を研ぎ澄まし、目だけをグルッと意味なく動かしてみる。怪しい、積もってるな、と思ったとほぼ同時、ズッズッズッーズッとタイヤの派手な空転音が聞こえてきた。ベッドを抜け出し、パジャマの上に冬の部屋着の定番ユニクロのフリースをひっかけてテラスに出て外を見た。見事な銀世界! そしてアパートの地下駐車場からのスロープの途中で、ガンメタのフィアット・クロマが1台立ち往生していた。空転音の主はこいつだった。

 結局、その日、日曜日は言うに及ばず翌月曜日も部屋に閉じ込められていた。雪は断続的に降ったり止んだりの状態だったけど、積もった雪が凍結してまったく融けない。日中でも外気温がマイナス10度を下回っているのだからそれも当然か。アパートの駐車場からの登りのスロープもアイスバーン状態でクルマも出せない。とにかく僕は到着してからのこの3日間、仕事らしきことは何一つできなかった。翌々日、水曜日の午前中にはイタ雑からスタッフがもう一人やってくることになっていた。無事到着できるのか、それも心配だった。

 2004年だったか2005年だったか、やはり2月にトリノで2、3日結構な量の雪が降ったことがあった。あの時は空港も閉鎖された。今回ほどではないにしろ市内の混乱はクルマに頼る生活ゆえそれ相応に大きなものだった。でも僕はそれを衝いてタイヤネットを装着、雪のアウトストラーダをマラネッロに向かった。7、8年前にはまだそういう無謀さというか、とにかくやってみる!みたいなある種の侠気じみたものが、この胸に確かに宿っていたのだ。今はない。自重できるようになったとか、円くなったとか、人はいろいろ言うけれど、実際はねぇ、違うんじゃないの、と内なるオレが言っている。人が細かな変節を重ねて一回転して別の顔を持つのに、7、8年というのは十分な時間だ。

 さて、雪は火曜日になって一服。相変わらず積もった雪は融けずにそのままの状態だったけど、とりあえず幹線道路の通行には支障がなくなった。水曜日午前中にはイタ雑スタッフ、若いS君も無事トリノに到着した。が、後から考えてみると、これは異常寒波の間隙を縫った奇跡の到着だった。トリノではその日の午後から再び降雪、今度のそれは前回よりも一層激しいものになり、トリノ空港発着のフライトは欠航便が相次ぐことになったからだ。雪はイタリア北部のみならず、ローマをはじめ中南部にまで広がり始めていた。

…………つづく

 

イタリア自動車雑貨店 太田一義
 





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  トリノは約30年ぶりの大雪だった。そんな日に水道が出なくなった。凍結である。朝起きてそれに気づいたときに、すぐさまその日が日曜日であることに思い当った。最悪だ。日曜日にイタリアでこの事態に対応してくれるところなんて思いつきもしない。すくなくとも今日一日はこのままの状態で我慢するしかない。起きて欲しくないことというのは、そういう都合の悪い日にきっちり起こるものだ。クルマはお盆休みの期間中にぶつけるものだし、子供の急病は大みそかにやって来る。知り合いのベッペさんの家に連絡してみる。大袈裟に同情されたけど、やはり今日一日はどうしようもないという。明日、朝一番でフランコに行ってもらうから。ベッペさんの奥さんのその言葉を聞いてちょっとホッとして電話を切った。
 フランコさんはFIATのミラフィオーリ工場で働いている。それなのに朝一番で我が家兼イタ雑事務所にやって来られるのには理由がある。FIATが現在Cassaintegrazione、いわゆるレイオフにより操業調整を実施しているからだ。フランコさんは1月、わずか6日間しか出勤できなかったという。当然給与も満額支給されない。そもそも45歳になるフランコさんの給与は月1000ユーロに満たないのだ。1ヶ月きっちり働いても日本円で10万円程度のその給与が、工場の操業調整によって約6割程度に減額されてしまうらしい。だからヤミでアルバイトをする。フランコさんは知り合いの家の補修や、今回の我が家のような緊急事態に駆け付けては生活の糧を補填している。

 僕がベッペさんの紹介でフランコさんと知り合ったのは、イタ雑の事務所をトリノのチェントロから現在のMoncalieriに移した時だ。2010年の1月の終わりだった。スケルトン状態で引き渡される部屋を住める状態にするまでの一切をフランコさんにやってもらった。壁や天井の塗装、キッチン設備、照明器具、そしてブラインドの設置などもろもろの作業を、すべてフランコさんが格安で引き受けてくれた。当時MiToの生産ラインに就いていた彼は、その時もやはり操業調整でアルバイト生活を余儀なくされていた。4年前に奥さんを脳腫瘍で亡くし、残された7歳の娘との二人暮らしをやりくりするために、周囲に声をかけてはそういう種々の仕事を回してもらっていた。フランコは運がないのよ。ベッペさんの奥さんはよくそう言っては、ため息と一緒にタバコの煙りをダイニングテーブルの下に向かってフーッとやっていた。

 そうだよね、運というのは確かにある。自分の意志や力ではどうにもならないことというのが確かにあって、それはもしかしたら人生で遭遇することの大半なのかもしれない。貧しい家庭で育ち、教育を受ける機会にも恵まれず16歳で電気工見習になり、その後職業をいくつか替えて、ようやく家庭を持ち子供も生まれた。それなのに……。そう、これはイタリアじゃ掃いて捨てるほどある物語だ。物語の主人公はみな明日のためではなく、今日その時のために生きている。フランコさんの不運はそこに奥さんを亡くしたことで増幅される。働いて、働いて、働いて、家事の一切を担い、一人娘との間に生まれつつある微妙な距離の開きに頭を悩ませては、今日もどこかの家の壁に黙々とペンキを塗り込んでいく。

 月曜日の朝、フランコさんは電動ドライバーと家庭用のドライヤー、それから太巻きの断熱テープを持ってやってきたらしい。「らしい」というのは、その朝、僕は早く出かけねばならず立ち会えなかったのだ。合鍵をベッペさんに預け、フランコさんはそれで我が家の鍵を開けて見事水道を復活させてくれた。しかし翌日、今度はボイラーが凍結して、お湯はもちろんのこと暖房までストップしてしまった。連日、零下15度以下に下がる気温に、トリノではいたるところで住宅設備がダウンしているらしかった。フランコさんは1時間ほどでボイラーも直し、これから娘を学校に迎えに行くんだよと言い置いて古いフィアット・プントで凍結した道をそろりそろりと走り去っていった。僕は寒さに怖じ気づきながらベランダから見送った。

 フランコさん以外の誰もフランコさんにはなれない。あなたも僕もフランコさんの代わりをすることもできない。でも、たとえば、MiToを走らせる日本のどこかの路上で、そのクルマのどこかにフランコさんの痕跡があるんだと想像力を働かせてみることは、案外素敵なことかもしれない、とちょっぴり切なく僕は思ったりしている。イタリアからやって来るクルマもいろんなイタリアを背負ってる。

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  本格的に登山を経験したことはない。ハイキングレベルの軽登山を別にすれば、大学時代に友人と北アルプス常念岳を徳沢から登ったのが唯一の経験だ。登り始め1時間ほどの猛烈な苦しさが記憶に残っている。でも山は好きだ。トリノからはヨーロッパアルプスの数々の名峰が眺められる。天気の良い日に北に向かってクルマを走らせれば、半時間もしないうちに眼前にアルプスの山々が屏風のように広がる。その景色を見ると、今このときにも頂上を目指して一歩また一歩と歩を進めるクライマーがいるんだろうなと、そんな想像をしては目を凝らしている。
一口に登山といっても、本格的なそれは方法論の違いにより登り方も異なるようだ。かつて大学の山岳部などで主流の登山法は極地法と呼ばれた。それはベースキャンプを設営し、そこから先、さらにいくつかの前進キャンプを設けていく方法だ。選ばれた登頂隊員とは別の隊員たちによって、各前進キャンプに食糧、酸素ボンベ等の荷揚げが行われる。隊のメンバーのほとんどはこの黒衣役として登山隊に参加することになる。多くの人員と資金を要する、組織を挙げてのチャレンジだと言える。それと対照をなすのがアルパインスタイルと呼ばれる登り方だ。ベースキャンプこそありさえすれ、そこから先は登頂メンバーのみ、もし単独行なら自分ただ一人によるクライミングである。あらかじめ設けられた前進キャンプも、他のメンバーからの荷揚げ等のサポートもなし。テントなしのビバークも辞さず一気に登るわけだ。

 どちらがいい悪いは僕のような門外漢にはわからない。しかし、ただ字面だけを追えば、登山として、より純粋かつ困難なのはアルパインスタイルのようにも思える。人間のあらゆる生存条件が削り取られた8000メートル級の山に、単独、酸素ボンベなしで挑むというのは、肉体の限界を超える闘いであると同時に精神の人並外れた強靭さを試されることでもあるだろう。克服していかねばならない孤独の深さはどれほどだろうか。もちろん極地法を選んだとしても、程度の差こそあれ、それは同じなのかもしれない。でも、自分以外の誰かが同じ目的をもってそばにいるということが、酸素ボンベのあるなし以上に生死を分かつ分水嶺になることは多分間違いのないことだと思う。

 年が明けてすでに1ヶ月が経とうとしている。新年に一念発起、今まで属した組織を離れてひとり独立の道を選んだ人も少なくないだろう。それが意味することはただひとつ、今まで当たり前のように毎月25日になると振り込まれていた給与がなくなるということだ。酸素ボンベを運び上げてくれたり、前進キャンプを設営してくれたりというサポートのない、アルパインスタイルで進んでいくということだ。それも登山よりずっとずっと長い道程を。この道を選択するのに、その動機が「組織のしがらみを離れてひとりでやってみたい」じゃ弱いかもしれない。少なくとも最後の決め手は「ひとりでも平気」と思えるかどうかだと僕は思う。登山より困難なのは、頂上が見えないこと、しかもその頂上を自分の都合で低くしたりも出来てしまうことだ。今までの人間関係に馴れ合って適当にやって生きていけるのも、この世の中の紛れもない実相なのだから。

 もう10年以上前、パリからトリノへ向かう飛行機の窓から、雪のアルプスに挑む3人のパーティのケシ粒のような姿を見たことがある。そこに感じたあの鋼のように張りつめた孤独の影を忘れることができない。美しいと思った。これ以上美しい光景があるだろうかと思った。山に挑む意味、いや、生きることの意味に繋がるなにものかが、クライマーたちのぎりぎりの自己表現としてそこに漂っているように思った。孤独を友とすることによって始まる人生がきっとある。一打目のハーケンに思いのすべてを託して雪煙に霞む頂上を目指す人も、25日の約束の金を恐る恐る捨てた人も、孤独を友として自分の一歩そしてまた一歩を刻みつけていかなければならないのだ。同じだ、と僕は思っている。

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 ピエモンテ州のワイン産地として名高いASTI。この地方の小さなコミュニティにVINCHIO(ヴィンキオ)という町がある。ちょうどイタ雑で販売中のワインの追加注文にそこを訪れた時、その日一緒だった知人のベッペさんが地区の公民館みたいな所でカレンダーを貰って来た。持ってけよ、と一部手渡されたそれを、隠居した老人たちのたまり場のようになっている古いバールの前でパラパラとめくってみる。モノクロの写真でVINCHIOの昔の様子を伝えている手作り感溢れるそのカレンダーは、既に老齢と言うに相応しい年齢にさしかかった自分にはどこか惹かれるところがあるものだった。
終戦後10年にも満たない1950年代。木綿の揃いのスモック姿の子供たち。幼稚園くらいの年齢のチビたちが集合写真に収まっている。笑ってる子はひとりもいない。みな緊張した顔をレンズに向けている。昔の日本もそうだったけど、写真を撮られるということにはちょっぴり緊張する儀式じみたところがあるものだった。普段触ったこともないカメラという機械への畏敬の思いがそうさせたのだろうか。それはともかく、カメラが捉えていたのはそれだけではなかった。その硬い表情の子供たちの背後に横たわるもの、そう、そこには当時の貧しい暮らしぶりまでがくっきりと滲み出ているのだった。街頭テレビだの、テレビのある家で見せてもらっただのと、日本でも当時の様子はそんなふうに語られるけど、イタリアでもそれは同じだったとベッペさんは懐かしそうに言った。

 そんな時代を今自分が生きる恵まれた場所から眺めて、それを無邪気に「あの頃は良かった」と礼賛したりするのは、ぬるま湯に浸かって唸るいい気な鼻歌みたいなものだ。大人が望む子供らしさを子供が持っていたり、暮らしが無駄なく倹しかったりするのは、なにもその当時を生きた人々の精神性が僕らよりずっと高貴だったということではないだろう。百歩譲って彼らの心持ちが今を生きる僕らより慎ましいものだったとしても、その精神のありかたを決定付けたのは人々の選択ではなく時代の要請だったはずなのだ。そう生きるしかなかった、ということ。テレビもゲーム機もなかった子供たちには、路地裏や野山を駆け回ることのほかに何があっただろうか。

 それでも、ただひとつ、これだけは確かだと思うことがある。それは夢を見る力の強さである。貧しかった時代の子供たちが抱いた未来への夢や希望は、満たされていない今を跳躍板とするからこそヒリヒリするほどに切実である。漠然と豊かな暮らしを思い描くというより、未来はもっと具体的なカタチを持っている。テレビで見たアメリカのドラマの中の別世界の日常が、それをどんどん後押しした。こうなればいいなぁ、ということが次から次に現れてくる。その時その時に、自分の手にないものを介在して具体化する夢。それが積み重なって胸に満ちるのは、今日よりは明日、という思いだったに違いない。

 僕らが失ったものがあるとすれば、いや、僕らに見つけにくくなったものがあるとすれば、それは日々この身に迫ってくる欠乏感のようなものである。過不足ない今に慣れきってそれを甘受している限り、未来を自らの手によって引き寄せる試みなんて疲れるだけのことであったり、無謀な冒険だったりするのだ。なぜならそれはすぐれてひとつの闘いに違いないから。見も知らぬ誰かの苦闘の物語には感動できる「いい人」ではあっても、自分自身は決して闘いの態勢に入ることはない。人それぞれ、なんて都合のいい念仏を唱えて、波風立たぬ平穏な日常の継続を望んでいる。すべて成熟の名のもとに。それは、きっとそれは、今の自分に違いない。きっと、きっとそれは、組織体全体としてのホンダでありソニーであるに違いない。今日よりは明日、と噛みしめて投げる石をこの手にもう一度持ってみたいと、自分に残された時間をわけもなく推計しながら、僕は2012年の川岸に立っている。

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 2011年は否応なく東日本大震災とともに記憶される年になるだろう。あの日から今日12月31日までの290日間、それでも私たちはひとりひとりの「一歩前」を手探りしつつ、不完全ながらも今日を明日へと繋げてくることができた。僕は今日それを祝したいと思う。
個人的に今年を振り返ると、震災後、大きな病気をした。壁はよじ登れ、山は越えて行けと、何事によらず困難から逃げずに自分の力で真正面からぶつかっていくべきだと信じてきた自分自身にとって、それは自分じゃどうにもできない絶望的な無力感に苛まれる出来事だった。「一歩前」は遥かに遠く、病室から見える西新宿の高層ビルの窓を数える日が夏の盛りまで続いた。

 2012年がどんな年になるのか、それは僕にはまったく予想できない。今日2011年12月31日で時間の流れを区切って、「さあ、ご破算で願いましては」と明日から心機一転、という気分にもなぜだかなれない。ただ、今回経験した290日間のように、そして真っ白な壁の病室の日々のように、たとえささやかであっても今日を明日に繋げる気持だけは持ち続けていたいと思う。

 今年1年、店頭へWEBページへと、たくさんの皆様のご来店ありがとうございました。途切れることなく続くその毎日が、私たちイタ雑スタッフの希望の源泉でした。多くのことを学びました。ありがとうございました。

イタリア自動車雑貨店 太田一義





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