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non è bello ciò che è bello, ma è bello ciò che piace.
            ( 美しいものが美しいのではない、好きなものが美しいのだ )
投稿日:2017/03/31 18:00:08
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幻に終わった“Cagiva Ferrari F4”は、Ferrariがフォーミュラー1で培った技術をモーターサイクルの世界に落とし込もうとした、意欲的な企画であったが、1990年代にCagivaが仕掛けたMV Agustaのブランド復活劇によって、それは“MV Agusta F4”に受け継がれ、現実のものとなった。
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▲ Cagiva Ferrari F4

設計を指揮したのは鬼才マッシモ・タンブリーニ(Bimotaの設立者の一人)だったが、F4エンジンの特徴とも言うべき“ラジアルバルブ”こそ、当時、ピエロ・ラルディ・フェラーリ(現Ferrari S.p.A.副会長)が率いたFerrari Engineeringから技術提供されたもので、それこそが“Cagiva Ferrari”であり、今日の“F4 = Ferrari 4”と呼ばれる所以である。
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▲ MV Agusta F4のラジアルバルブ。吸排気面積が拡大できるというメリットがある。

さて、8月下旬。何度かのティーザーキャンペーンを経て、MV Agustaは“F4Z”を名乗るF4を発表した。
その最大のトピックスは、車名末尾の“Z”が意味する“ZAGATO”とのコラボレーションで、ボディカウルをミラノのデザイン・オフィスが手掛けることになった。
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▲ MV Agusta F4Z。9月4日にフランスで開催された“シャンティイ・アート&エレガンス”で正式披露された。シルバーとメタリックレッドを基調としたボディカラーはMV Agustaのセオリーに則ったもの。

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▲ 真新しいプロジェクター式のヘッドライトは、イタリア式に言えば“モノファーロ(一灯)”だろうか。

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▲ 正式な名称は“F4 ZAGATO”ではなく“F4Z”である。

プレスリリースによれば日本人コレクターのオーダーによる“one of one”とのことだが、間もなく、創業から100年を迎えるZAGATOにとって、モーターサイクルのデザインを手掛けるのは初めてであろう。
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航空機製造を学んだウーゴ・ザガートが、その軽量化技術を自動車分野へ提供することを目的にミラノで創業したのがCarrozzeria Zagatoだった。特に、同じくミラノに本拠地を構えていたAlfa Romeoとの共演は、今も輝かしい歴史が語り継がれている。
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▲ Carrozzeria Zagatoがボディを手掛けたAlfa Romeo 6c1750GSは、Alfa Romeoに数多くの栄冠を齎した。そのワークスチームを率いたのはエンツォ・フェラーリである。

現在は、ボディ製造を手掛ける“カロッツェリア”という意味からは少し離れ、デザインやエンジニアリングを請け負う“デザイン・スタジオ”に内容をシフトしている。だが、その魅力は輝きを増し続けている。
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▲ 今年のヴィラデステで発表されたAston Martin Vanquish ZAGATO。現在のZAGATOはウーゴ・ザガートの孫であるアンドレア・ザガート社長を筆頭に、長年に亘ってチーフ・デザイナーを務める原田則彦氏、そして、このVanquish ZAGATOを手掛けたステファン シュヴァルツ氏がZAGATOを支えている。

日本がそうであるように、イタリアの自動車産業とオートバイ産業も、お互いに関係の深い存在である。
Isettaを生み出したISOはオートバイと冷蔵庫で成功を収めた後、FerrariやLamborghiniのような高級グランツーリスモの製造に転身し、名を遺した。
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▲ BMWへIsettaの製造権を譲渡したISOが最初に送り出した高級グランツーリスモが、このISO Rivolta GTだった。スクーター製造から小型自動車の生産を企画したメーカーは少なくなかったが、ISOのような存在は異例と言える。デザインはBertoneに在籍していたジョルジェット・ジウジアーロが手掛けた。

DucatiはLamborghiniと同じボローニャで創業し、2012年には同じAudi傘下に収まった。Vespaで有名なPiaggioもFIATの創業一族アニエッリ家に買収され、実質的な傘下となっていた。航空機製造でも知られている。

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バイクとクルマ、この二つの分野が交差し、互いに影響を与え合う存在となることは世界的にも、歴史的にも、珍しいことではない。
しかしながら、MV Agusta F4とZAGATOの“結婚”は大いなるロマンが交差する瞬間と言えるのではないだろうか。
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そして最後に、この文書を書いていて非常に残念なのは、MV Agusta F4Zが “one of one”という唯一無二の存在であるということ。
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だがそれは、誰の手にも届かない存在であるからこそ、より一層、輝きを放っているように感じられるのだと、自分を納得させたいと思う...。





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1973年。映画『燃えよドラゴン』は空前の大ヒットとなったが、公開直前の7月にブルー・スリーが急死してしまったことで、これが遺作となってしまう。
そんな本作の“顔”とも言うべきポスターを手掛けたのは、グラフィックデザイナーのボブ・ピークだった。
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▲ ボブ・ピークによる映画『燃えよドラゴン(原題:Enter the Dragon)』のポスター。

ピークは『マイフェアレディ(1964年)』や『007/私を愛したスパイ(1977年)』、『スターレック(1979年)』といった、映画ファンなら一度は目にしたことのあるポスターを数多く手がけた人物である。また、フェラリスティとしても知られていた。
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▲ ボブ・ピークと彼の愛車であったFerrari 275GTB。フェンダーには“N.A.R.T.”らしきフェラーリ・ロゴが張られている。だとすれば、この275GTBはキネッティから購入したものだろうか?。

さて、話は『燃えよドラゴン』から遡ること6年前。1967年頃。
アドポスターの第一線で活躍していたボブ・ピークにフェラーリをデザインしてみないかと、ある人物が提案を持ちかけた。彼の名はココ・キネッティ。
アメリカにおけるフェラーリの仕掛け人として、あのノース・アメリカ・レーシング・チーム(通称、N.A.R.T.)を率いたルイジ・キネッティの子息である。
また、この頃はディーラー業としてもFerrari 275GTB/4の屋根を切り捨てた、Ferrari 275GTB/4 N.A.R.T. Spiderを提案し、高評価を得ていた。これは実際に十数台がデリバリーされ、うち一台はスティーブ・マックイーンにも納車されている。
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▲ キネッティが提案したFerrari 275GTB/4 N.A.R.T. Spider。製作はマラネッロのCarrozzeria Scagliettiに託されたが、あくまでも“正式”なフェラーリではなかった。写真はその一号車で、後に赤色に塗り替えられて映画『華麗なる賭け』に出演。スティーブ・マックイーンと共演を果たしたが、彼が購入したのは別の個体である。

ピークはココの提案を受け入れると、“夢のクルマ”の製作が始まった。
ドナーとして選ばれたのはプロトタイプレーシングカー、Ferrari 275P(s/n.0812)。スクーデリア・フェラーリから払い下げられ、数年前からN.A.R.T.名義でレース活動を行っていたものの、当時としては既に世代遅れとなったマシンだった。
激戦に耐えたボディは破棄され、新しい使命を纏った姿へと、生まれ変わることになったのだ。

だが、そんな夢をカタチにするためには、ボディワークを担当するスペシャリストの存在も不可欠だった。そこでキネッティは、イタリアのカロッツェリア業界に精通する、ある人物に協力を求めた。
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▲ ボブ・ピークによる“夢のクルマ”のレンダリング。

巨匠、ジョヴァンニ・ミケロッティである。
キネッティは第二次大戦中にアメリカに亡命したイタリア人ということもあって、イタリアに強いパイプを持っていたし、フリーランスとしてトリノにスタジオを構えていたミケロッティならば適当な人物だと、確信したのであろう。
かくして、ボブ・ピークによるデザイン、ジョヴァンニ・ミケロッティ監修のフェラーリが製作されることになった。

1968年のニューヨーク・オートショー。
夢のクルマ、“Ferrari 275P Speciale Micherotti”は発表された。
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レーシング・フェラーリという“育ちの良さ”を生かしつつ、モダンにトリミングされたデザインには、ガルウィング・ドアやポップアップ・ヘッドライト、フロントフェンダーと一体化されたサイドミラーなど、真新しい試みが数多く盛り込まれた。
そして、アメリカとイタリアという二つの哲学が融合した唯一無二のデザインは、多くの人々に好奇的な印象を与えたのではないだろうか。

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▲ 1968年に開催されたニューヨーク・オートショーに展示されたFerrari 275P Speciale Micherotti。

しかし、もうこのフェラーリはこの世に存在しない...。

それは21年後の1989年、イタリア・モデナ。
数多くのコンペティション・フェラーリの板金を手掛けた名工、フランコ・バケッリ率いるCarrozzeria Autosportに、あの275Pの姿はあった。
ピークとミケロッティがデザインしたボディは剥がされ、そのシャーシの上には、深紅に輝くワークス時代のボディが“復元”されたのである。
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▲ Carrozzeria Fantuzzi製のボディを纏うワークス時代のs/n.0812。そのボディ形状からFerrari 275P Fantuzzi Spiderと呼ばれている。写真は1964年のセブリング12時間でのもの。

なぜならば、このs/n.0812を持つ275Pはスクーデリア・フェラーリのワークス時代に、1963年のニュルブルクリンク1000kmと、1964年のセブリング12時間で優勝した経験を持つ“由緒ある個体”だったからである。

こんな話がある。「レーシングカーとして生まれた車は、レースで成績を残してこそ、本当の価値がある」と...。

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▲ 2010年にラグナセカで開催されたモンテレー・モータースポーツ・リユニオンに参加した際のs/n.0812。

現在も、s/n.0812はワークス時代のスタイルを守り、各地のイベントで活躍している。
ちなみに、1963年。ル・マンで車両火災に見舞われたs/n.0812は、修復される際、翌シーズンを見据えて、エンジンやボディのアップデートが施されている。現在、目にできるのはこのアップデート後の姿である。

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二度の人生。いや、三度の人生を味わったこのクルマにとって、果たして価値のある“状態”とはどれなのだろうか。
その結論は、皆様に委ねたいと思う...。





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今年も暑い夏がやってきた。8月に入るとイタリアではヴァカンスが始まり、多くの人々がビーチに集まって、海岸周辺のホテルの価格は急上昇してしまう。イタリア人は海が好きなのだ。

かつて、イタリアのカロッツェリアが手掛けたクルマたちに“ビーチカー”と言われる、風光明媚なリゾート地の海岸線を走ることを目的にしたクルマがあった。
屋根を持たず、砂浜を走ることができて、濡れた水着のまま乗ることを前提にしていたから、内装は耐水性を考慮した簡素なものだったけれども、お洒落な雰囲気が漂っていた。
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▲ Carrozzeria Ghiaが製作したFiat 600“Jolly”。ビーチカーの代名詞ともいえる存在。

なかでも有名なのはCarrozzeria Ghiaの“Jolly”シリーズで、これはギリシャの海運王として名高いアリストテレス・オナシスがFiat 600をベースにビーチカーの製作を依頼したことがきっかけと言われている。
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▲ Jollyは世界中のセレブリティに愛された。写真はモナコのプリンス、レニーエ3世と愛妻のグレース・ケリー、そして子供たち。海に面したモナコにはうってつけのクルマだったのかもしれない。

もちろん、このようなクルマは少なからず富裕層やヴァカンスを海で楽しむ人々の需要があって、PininfarinaやMicherotti、Vignaleなど、多くのカロッツェリアが提案を試みたが、その殆どが“一品物”で、量産にまで至ったケースは少なかった。
一方の“Jolly”は、Fiat 600やFiat 500、Fiat 600 Multipla などにも派生して、10年近くに亘って結構な台数が生産されたから、ビーチカーとして“成功例”と言えるだろう。
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▲ Pininfarinaが提案したFiat 600 Multipla "Marine"。1956年のジュネーブショーに展示され、FIATの総帥ジャンニ・アニエッリが所有した。

もちろん、このような素質を持ったクルマの存在はイタリアだけの限定的なものではなかった。
例えば、フランスにはCitroënのDyane(2CV)をベースにしたMéhariがあるし、アメリカではMeyers ManxがVW Beetleのシャシーを流用して製作したBeach Buggyが有名である。
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▲ Citroën Méhar。若年層も視野に入れていたからか、当時のプレスには“ヒッピー”を思わせる写真もある。発表は1968年だった。

加えて、イギリスのAustin Mini Mokeはアレック・イシゴニスが軍需を目的に設計したと言われているが、結果的にレジャーを目的としたクルマとして認知されるようになった。
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▲ Austin Mini Moke

このように、用途や目的は“お国柄”によって違うけれども、“ビーチカー”と同等の素質を備えたクルマたちは世界中で生み出された。
また、その共通点として、ベースとなる車両は高級車ではなく、大衆的で安価なクルマが選ばれ、内面的な実用性や経済性が求められていたことも伺える。

とは言え、先述したJollyやMéhari、Mokeは、今やコレクターズアイテムとしてガレージで大切に保管されている傾向が強くなっていて、レジャーで“気軽な存在”という訳にはいかなくなってしまったのが実情だ。
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▲ クラッシックカーの高騰に伴い、名だたるオークションでもJollyを目にする機会が多くなった。しかし、そのヒストリーや価値が昔より見直され、高額な値段で取引されるようになった。Mini Mokeも同様である。

だが、ビーチカーは過去の存在ではない。少なからず現在も、人々に“歓迎される”存在であるようだ。
昨年、Citroën はC4 CactusをベースにしたE-Méhariを発売し、そのスタイルと共に、約27年ぶりに“Méhari”の名も復活させた。
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▲ Citroën E-Méhari

また、数年前にはイタリアのCarrozzeria Castagnaが、あのJollyを髣髴とさせる“ビーチカー”を現代のFiat 500で提案している。
そして、この両者の共通点はEV。すなわち電気自動車なのだ。
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▲ Carrozzeria Castagnaが提案したFiat 500 “Tender Two”。外見的にはFiat 500だが中身はEV化されている。

海でヴァカンスを楽しむ人々にとって、ビーチカーは“環境が生み出した最高の乗り物”なのかもしれない。
かつての“ビーチカー”が大衆車をベースに、その実用性と経済性も求められたように、21世紀版“ビーチカー”は駆動方式を電気に変えて、生き続けるのではないだろうか...。




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あの噂は本当だった...。
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私が初めて、まだ当時は“F150 Project”と呼ばれていたLa Ferrariをフィオラノで観たときは、FXX Kの登場は予感できたとしても、屋根を取り除いた“オープン・ルーフ”にまで進化を遂げるとは予想できなかった。
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しかし、もう一つのアイディアが実在したのである...。

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F40やEnzoなど、いわゆるスペチアーレの系統において、オープンモデルが登場するのはF50以来となるが、生産終了のアナウンスが告げられるのと同じくして、派生モデルが追加されるのは初めて。

昨年、株式上場を果たし、独立を宣言したFerrariが転換期を迎えていることはご存じの通り。
このLa Ferrariの登場は、彼らのブランディングが、これまでとは違う新しい局面に突入したことを示唆しているように思える。
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我々がアイコンとして認識している“跳ね馬”こそは変わらないが、その“跳ね馬”を作り出す人々のスピリットは、新しく生まれ変わろうとしているのではないだろうか...。 

尚、このLa Ferrari Apertaは仮称の段階。その“正式”な名称やパフォーマンスは10月のパリ・モーターショーで発表を予定している。





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