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独特の目線でイタリア・フランスに関する出来事、物事を綴る人気コーナー
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イタリアの路上では、思わず笑いがこみあげる光景に日々遭遇する。
今回は、そうしたものを読者諸兄と楽しみたい。

最初は、北部パドヴァのホテル駐車場でのフォルクスワーゲンのマルチバンだ。

まずは初代タイプ2を模した2トーンカラーに目を奪われた。しかし、よく見ると最後列にお年寄りが乗っているではないか。

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2トーンカラーのフォルクスワーゲン。最後列に人影が。

「涼しい早朝とはいえ、おばあちゃんを一人で車内に残すとは、なんという奴だ」と憤慨しそうになってよく見れば、なんとエリザベス英国女王の写真ステッカーであった。
このステッカー、イタリアのものでなく輸入品であろう。イタリア版として「ベルルスコーニ元首相」ができれば、筆者などは彼を乗せてドライブしたい。

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恐れ多くも、あの方がお乗りだった。

イタリアで頻繁に見かけるジョークといえば、洗車していない車のウィンドーに指で記された“ラーヴァミ”の文字だ。Lavamiとは「私を洗って」を意味する。
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ばっちいクルマによく落書きされている「Lavami(私を洗って)」。

いっぽう、こちらは筆者が住むシエナ市街で発見したものである。いたずらか経年変化か、一部が剥がれてしまった「タクシー乗り場」標識を、誰かがサインペンで“修復”。ついでに楽しそうなドライバーと乗客まで描いてしまっている。流し営業は原則として存在せず、乗り場にいてもなかなか来ない我が街のタクシーだが、これを眺めていれば待ち時間のイライラも和らぐ。
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タクシー乗り場のサイン。オリジナル以上の“修復”が。

次は、あっぱれなディーラーである。こちらの自動車販売店では、納車するナンバープレートのフレームに店名を入れるのが長年の慣習だ。シエナのスズキ販売店は、思い切りカタカナで「スズキ」と入れてしまっている。何年も続いているところを見ると、顧客から好評なのに違いない。
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シエナのスズキ販売店によるナンバープレート用フレーム。カタカナでオシャレ感増幅。

2019年夏、イタリアで流行の兆しがあるデコレーションといえば、リアワイパーを猫の尻尾に見たてたステッカーである。作動させればフリフリしているように見えるわけだ。
雨天と渋滞はどんなドライバーにとっても憂鬱なものだが、これを見ていれば後続していても退屈しない。

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猫が尻尾をフリフリ。


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2019年初夏から繁殖中の模様。

イタリア経済の先行きは依然不透明である。イタリア統計局によると、2019年3月の失業率は10.2%で、15-24歳に限ると、その数は30.2%にまで上昇する。
倒産件数や経営危機も依然高止まりだ。日本でも知られるブランドを挙げれば、2017年末に創業160年の帽子ブランド「ボルサリーノ」が倒産。2019年に入ってからは、デザイン・コンシャスで知られるキッチングッズ・メーカー「アレッシィ」のリストラが伝えられた。

そうした社会で、路上やウィンドスクリーン越しに見るちょっとした笑いが、一服の清涼剤であることはたしかだ。同時に筆者は、たとえ既製品であっても、それを選んだ仕掛け人の性格を想像し、「経済破れても、ノリのいいイタリア人あり」と心穏やかになるのである。
ちなみに筆者のクルマも、常に前述の「ラーヴァミ」が書かれておかしくない状態である。駐車監視モード付きドライブレコーダーを装着し、どんなイタリア人が落書きしてゆくのかを記録できれば楽しいかも、と密かに考えている。

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文 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA
写真 Akio Lorenzo OYA/Museo dell’Automobile Torino/FCA

あのテージスのデザイナー

2019年現在、イタリアで最も使用頻度が高い大統領専用車は、2012年に導入されたランチア・テーマである。ただし、米国製クライスラー300の姉妹車だ。

いっぽう、それ以前はランチア「テージス」のベルリーナおよびそのストレッチ・リムジンが使われていた。

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ランチア・テージスは、イタリアで政府公用車としても多く用いられた。


テージスは2001年に発表されたランチアの最高級車であった。
そのデザインをディレクションしたのは、マイケル・ロビンソンである。

マイケル・ヴァーノン・ロビンソンは、1956年米国ロサンゼルスに生まれた。
16歳のある日、クラスメイトから見せられた自動車の写真に衝撃を受けた。
「図書館に行って資料を片端からめくりました。そして、ベルトーネというイタリアのカロッツェリアがデザインしたストラトス・ゼロという車であることを突き止めたのです」
それをきっかけに、マイケルはイタリアでカーデザイナーになることを目標にする。

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若き日のマイケルが衝撃を受けた1970年ベルトーネ・ランチア・ストラトス・ゼロ





ワシントン大学で学んだのち、デトロイト近郊ディアボーンのフォード・デザインセンターと、スウェーデンのボルボでインターンを経験した。
母国アメリカは当時、世界をリードする自動車生産国であった。しかし、イタリアへの憧れからすれば、それは取るに足りないものだった。

 

フィアット/ランチア時代

1980年、憧れの地トリノにやってきて最初に就いたのは、同地にあったオペルのデザインセンターだった。その後ギアを経て1986年にフィアットに移籍。1995年フィアット・ブラーヴォ/ブラーヴァのインテリア・デザインなどを担当した。
「フィアット(のインテリアデザイン)に、エルゴノミックなカーブを採り入れたのは、私が最初でした」とマイケルは振り返る。イタリアに来てから実際にブラーヴァを所有していた筆者は、その有機的な曲線を描いたダッシュボードを、よく記憶している。

やがて1996年、同じフィアット・グループのランチア・デザインに異動。ブランドの復興にあたることになる。当時の代表作がリブラと冒頭のテージス、そして2代目イプシロンである。
ランチアがとびきり上品な高級車だった時代のデザイン・ランゲージを現代風に解釈した。

その後再びフィアット・デザインセンターのダイレクターに就任後、2005年マイケルは約19年にわたるフィアット・グループ在職にピリオドを打った。

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2001年ランチア・テージスと、1950年のランチアを代表する1台、アウレリアB20。





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フィアット時代に手がけた1995年フィアット・ブラーヴァのインテリア。


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1998年ランチア・リブラ


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テージスのデザイン言語を示したコンセプトカー、1998年ランチア・ディアロゴス。


フォーエヴァー・マイケル!

フィアットを離れてからのマイケルは、雑誌クアトロルオーテ誌にデザイン評論を執筆。毎号イラスト付きのそれは、人気連載となった。

 

しかしカーデザイン界は、彼の才能を見逃さなかった。
ベルトーネがエグゼクティヴ&ブランドデザインダイレクターにマイケルを据えたのである。53歳の年だった。
彼が青年時代に憧れ、この道に入るきっかけとなった、あのベルトーネだ。

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マイケル・ロビンソンがベルトーネのデザインチームを率いていた時代に発表した2010年アルファ・ロメオ・パンデオン

ベルトーネでもブランド復興を担ったマイケルは、ジュネーヴ・ショーで2010年から4年連続でコンセプトカーを発表。2012年のヌッチオは、16歳の日初めて出会ったストラトス・ゼロへのオマージュだった。
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ヌッチオ・コンセプトとマイケル。「(ピラーの)オレンジは、長年にわたるベルトーネのイメージカラーです」



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2012年ベルトーネ・ヌッチオ・コンセプト


2013年のアストン・マーティン・ジェット2+2シューティング・ブレークでは、自らジェームズ・ボンド風いでたちで現れた。

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アストン・マーティンということで、本人は007風で決めて登場。傍らに立つ彼の娘も、現在デザインの道を歩んでいる。




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ベルトーネ・アストン・マーティン・ジェット2+2シューティング・ブレーク。2013年ジュネーヴ・ショーで。

そしてトリノ自動車博物館の「デザイナー殿堂」入りを果たした2013年からは、ふたたびフリーランスのデザイナーとして活躍している。

マイケルが去ったあとのベルトーネは複雑な経緯を辿った。しかし彼のベルトーネへの尊敬の念は変わらない。
2018年4月ミラノ・マルペンサにオープンした旧ベルトーネの歴史コレクションには、マイケルがボランティアで撮影したベルトーネ旧社屋の俯瞰写真が掲げられた。

さらに旧ベルトーネで実際にストラトス・ゼロをデザインしたマルチェッロ・ガンディーニの回顧展企画では、監修者のひとりとして名を連ねた。
2019年1月に開かれたそのオープニング・トークショーには、ガンディーニ本人とともに登壇した。

今日、自動車業界のニュースを眺めれば、幹部の他社移籍の知らせが溢れている。それどころか、別業種への転職も珍しくない。

いっぽうマイケルは、青年時代に灯した情熱の火を保ち続けた。先行き不透明だった時代のフィアットでは、果敢にも過去のブランドになりかけたランチアの復興を手がけ、さらに自分の人生を決めたベルトーネにも貢献した。

それだけの仕事をこなしながら、いつも対話者を笑いに導く。
たとえば、念願叶ってストラトス・ゼロと対面したときの話だ。学生時代バスケットボール選手でもあった長身の彼に対して、ストラトス・ゼロの全高は僅か84cm! 乗り込むのに苦労が伴ったことを、ジャスチャーを交えてユーモラスに語って聞かせてくれる。

2019年で63歳。現代のカーデザイン界はもとより、自動車ビジネスにおいても類まれなるカー・ガイである。

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トリノ自動車博物館「ガンディーニ 隠れた天才」展では監修を務めた。なお同展は、2019年5月26日まで開催中。

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大矢アキオ Akio Lorenzo OYA 
コラムニスト/イタリア文化コメンテーター

イタリアでは2019年4月から最低生活保障(ベーシックインカム)が一部導入されることになった。所得が限られた人を対象に月額780ユーロ(約9万5千円)が支給される見通しである。目下、適用範囲など詳細の詰めが行われている。

日本では2019年10月の消費税率引き上げに合わせて自動車税制の見直しが検討されている。イタリアでも、ベーシックインカム導入と並行するかたちで、自動車の税制が再検討されているところである。

ところで昨今、この国では大排気量車をあまり見かけない。今回はその理由を説明してみよう。

第一は、イタリア式「自動車税の仕組み」である。
基準となるのは課税馬力(CV)だ。馬力と名が付いているものの、エンジンの出力ではなく、総排気量を尺度にしている。
具体的には19.8ccの「1CV」から7835cc以上の「50CV」まで50段階に分かれている。日本(10段階)とほぼ同じ仕組みといえる。

1CVあたりの税額に車ごとの課税馬力を掛け、そこに欧州排出ガス基準「ユーロ」のグレードを加味して算出する。

参考までに我が家の車(2008年モデル)は1991ccで課税馬力は20CV。ユーロ排ガス基準は「4」である。そこから算出された自動車税年額は283.78ユーロ(約3万5千円)だ。
ただし、1CVあたり税額は州によって毎年改訂が行われて、上がることはあっても値下げされることはない。とくに「ユーロ」の値が低いクルマは、環境負荷が大きい車両として年々加算額が大きくなる。
したがって大排気量車、とくに古いモデルは所有するメリットが少なくなりつつあるのである。

第二に経済危機を背景に2011年施行された「イタリア救済法」だ。これによって課税馬力による税額のほか、エンジン出力が185kWを超えると1kWあたり20ユーロが加算されることになった(5年目以降使用年数によって減免あり)。
たとえばアウディを例にとると、A1からA5までは全ラインナップが“セーフ”だが、A6セダンの最高出力モデル50TDIは210kWなので対象となる。同車の場合、ざっと計算しただけでも25kWオーバーなので年額500ユーロ(6万1千円)の追加となってしまう。

アルファ・ロメオ・ジュリアのトップモデル「クアドリフォリオ」は、さらに目眩がする。375kWなので3800ユーロ(約47万円)!も加算されることになる。ベースとなる自動車税も含めると優に5千ユーロ(約61万円)を超える。月にすると5万円以上払うことになる。

大排気量車の需要が伸びない第三の理由として、2013年に施行された「初心者制限」がある。運転免許取得後1年間は「車重1トンあたりの出力55kW以下」の車両しか運転できない。

第四に強化されている税務調査もユーザーに大排気量車の購入を踏みとどまらせている。
前述の課税馬力で21CV(総排気量2080.2cc)以上の車両を購入したオーナーは、高級車/大衆車、新/旧、ガソリン/ディーゼルの別なく、収税当局の調査対象となる。価格を基準としないところが不可解なのだが、モーターボートなどと同様の贅沢品とみなす、というわけだ。

イタリアでは、このあたりの排気量から上は「グロッサ・チリンドラータ(大排気量車)」と一般的に呼ばれる。
その認識は裁判にも及んでいる。2018年5月には、子どもの学校給食費の割引を申請していた母親に、それを認めない最高裁判決が下された。理由はその家庭が2500cc以上の車を所有していたからというものであった。もはや高級車を乗りまわすのは憚れる風潮であることを表している。

そうした中、唯一の解決法ともいえたイタリア古典車協会(ASI)のヒストリックカー認定制度による自動車税減免制度も、「製造後20年以上」から「製造後30年以上」に範囲を狭められてしまった。

また大きなベルリーナ(セダン)が影をひそめた理由として、ここ20年のイタリア人ユーザーにおける趣向変化がある。彼らの目には、コンパクトなハッチバック、続いてSUVのほうが若々しくスタイリッシュであると映り始めたのだ。

そんなことを書き連ねていたら、2018年のイタリア年間新車登録台数ランキングが発表された。3位はフィアット500X(49,931台)、2位はルノー・クリオ(51,628台)、そのクリオに2.4倍もの差をつけて1位に輝いたのは、フィアット・パンダ(12万4266台)であった(UNRAE調べ)。

3台の詳細な諸元表を確認してみると、前述した「185kW超え」「21CV以上」という禁断の領域に踏み込むモデルは1台たりともない。
とくに素晴らしいのは、3位のフィアット500Xである。全長約4.26m×全幅約1.79m×前高約1.59mというそれなりに見栄えのする体格をもちながら、イタリアでは999cc(88kW)モデルから設定があるのだ。ハイパワーモデルも1956cc(110kW)という、いわばギリギリの状態で止めてある。

面白いのはMPV、もしくは日本でいうところのミニバンがまったく人気がないことである。
フィアットには「タレント」という、ルノーと合弁のフランス工場で造られているミニバンが存在するが、一般ユーザーの間ではほとんど関心がない。よって、ボクのもとにも街角でこのタレントを撮影した写真はない。
人気がない理由を聞くと、多くのイタリア人は「NCCみたいだから」という。NCCとはノレッジョ・コン・コンドゥチェンテ=運転手付きレンタカー、つまり観光ハイヤー風だから、というわけである。
その大きさも理解に苦しむという。
身体とのフィット感を得られないサイズのモノは敬遠する。それは彼らの服選びと同じなのである。

(スペックはイタリア仕様を基準とした)


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いずれもかつてシエナで撮影したベルリーナたち。ランチア・テーマ。2003年11月撮影。

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1472年に創立されたモンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行本店前で。ランチア・テージス。2003年11月。


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アルファ・ロメオ164は人気だったが、写真の166が誕生した頃には、イタリア人の中でセダンといえばドイツ製プレミアムモデルになってしまっていた。2005年9月。


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一般家庭でも興味を示したMPVは、このランチア・フェドラ(および姉妹車のフィアット・ウリッセ。2002年-2010年)が最後であった。2005年撮影。
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イタリア南部ナポリの旧市街を訪れた。
この地に降り立つたび思うことだが、何気ないピッツェリアのピッツァでも素材が吟味され、絶妙な焼き加減で仕上げられている。
バールしかり。ありきたりの店のバリスタが淹れるエスプレッソでも、最初に唇に触れるクレマ(クリーム)部分からしてドラマティックだ。続いて脳の中で時間が止まるような深い味わいが襲う。

だから普段、故郷以外の食文化を認めたがらない他地域のイタリア人でも、ピッツァとエスプレッソに関しては「ナポリが最高」と言う。

そのナポリ、路上はかなりスリリングだ。ぼんやり歩いていると、スクーターが歩道や歩行者専用ゾーンにも平気で侵入してくる。食卓用の椅子を紐で縛らずに抱えて乗っていたのには、思わず目を疑った。破れたサドルは、見た目を気にすることもなくガムテでぐるぐると補修してある。

クルマもボディに大きな凹みや傷があるものが多い。ナンバープレートが無いクルマさえ見かける。ホーンもよく鳴らす。
いずれの事象も、どこか上海の街を思わせる。

ナポリは、1282年から579年間にわたりナポリ王国、続いて両シチリア王国の首都だった。しかし、1861年にイタリア半島の国家統一が行われると、政治の中心地は北部へと移った。1899年トリノに誕生したフィアットに代表される近代工業も、陸続きの隣国に近い北部で発展してゆくことになった。

第二次大戦後も、公共投資は北部中心に行われていった。犯罪組織の暗躍もナポリの経済成長の足かせとなった。一般的にいわれる「南北問題」だ。
ようやく復興の兆しを見せるきっかけとなったのは、1994年7月に開催されたナポリ・サミットであった。当時のビル・クリントン米大統領が下町で屋台の揚げピッツァを頬張る姿は世界各地で報道され、観光地として脚光を浴びるようになった。

今日でも、ナポリはけっして充分に豊かとはいえない。
年間所得が12万ユーロ(約1500万円)以上の住民は人口の僅か0.07%。ミラノの3.07%、ローマ1.69%に比べると低さが目立つ。収入が無い住民0.6%という数字は、他の2大都市を上回る(データはイタリア収税局調べ。2015年)。

にもかかわらず、欧州でイタリアは、ガソリンなど燃料価格がノルウェーに次いで高額である(2018年11月現在)。
それらの数字を知れば、ナポリで古い車を乗り続けるユーザーが多いのは容易に想像できる。

ただし、ナポリの自動車たちは、古いながらも徹底的にオーナーのお供をしている。信号が変わるたびかっ飛ぶクルマあり、家の前で壊れた洗濯物干しの片脚がわりになっているクルマあり。カーステレオの音質は安っぽいが、その小気味良いビートは、ドライバーだけでなく街の人や観光客までハイにする。

そうした光景を眺めていると、極東の日本に渡ってきたあげく、生涯いちども全力疾走するチャンスがなく、ちょっと旬が過ぎたら手放されてしまうプレミアムカーよりもシアワセに見えてくるのはボクだけだろうか。

同時に、来年で車齢10年を迎えるボクのクルマに対しても、「まだまだいけるじゃないか、一緒に暮らしてやろう」と、知らず知らずのうちに優しい気持ちになるのである。

文と写真=大矢アキオ Akio Lorenzo OYA


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ナポリの下町「スパッカ・ナポリ」にて。

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イタリアでも少数派となった「アルファ・ロメオ156」。ジウジアーロがレタッチを加えた後期型である。


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この国では2000年からすべての年齢で原付のヘルメットが義務化されたが、ナポリではいまだ遵守していない若者多し。




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「アルファ・ロメオ33」後期型も現役。車齢は最低でも23年ということになる。


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「イノチェンティ」ブランド末期のモデル「エルバ」。元はブラジル・フィアット製造による「フィアット・ウーノ」のワゴン版である。こちらも最低21年もの。


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1996年に登場したフィアット製ワールドカー「パリオ」が佇む街角。イタリアにはブラジル工場製が輸入された。

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タクシー編も少々。2代目フィアット・プント。


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「フィアット・ブラーヴァ」。筆者も一時期イタリアで白の同型車に乗っていただけに、懐かしさがむせぶ。

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フィアット・ウーノのピックアップ版「フィオリーノ」を用いた青果屋台。

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実用×お洒落系も。ナポリの高台・サンテルモ城で見つけた「フィアット126」。オリジナルに近い色で再塗装がなされている。

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かつて「ベスパ」の好敵手だった「イノチェンティ・ランブレッタ」。


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「フィアット600」がスパッカ・ナポリの雑踏を行く。まるで時間が止まったような風景である。
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イタリアにおける2018年7月のブランド別新車登録ランキングを見ると、トヨタが8位(7034台)にランクインしている。前年同月比6.08%増という数字は、ハイブリッドが貢献しているのは間違いない。

続く日産は13位(4145台)である。14.73%減は、もはや話題性に陰りがみえる同社のSUVを、フランス工場製の新型日産ミクラ(マーチ)がフォローできなかったためだ。
それでもトヨタと日産は、アルファ・ロメオやランチアよりも登録台数が多いといえば、その奮闘ぶりがおわかりいただけるだろう。
(データ出典: UNRAE)

今回は、イタリアでどっこい生きている「ちょっと古い日本車」の姿をお楽しみいただこう。

最初の写真は、2018年夏にシエナ旧市街で見つけた6代目トヨタ・セリカである。販売終了は1999年だから、最も若くても車齢19年ということになる。

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6代目トヨタ・セリカ(中央)。偶然にも隣は同じトヨタのランドクルーザーである。シエナにて2018年7月撮影。

次はスバル。もはやイタリアでWRXは走り屋系若者の憧れであり、フォレスターは軍警察御用達である。だが1990年代中頃までは、軽自動車をベースにした車種も販売していた。

3代目スバル・レックスは、イタリアでは「M80」の名で1991年から93年の間に販売されていた。ということは四半世紀生き延びているということだ。

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スバルM80は、日本の3代目スバル・レックスである。写真は2017年10月の撮影だが、この原稿執筆前に生存確認している。

1990年発売の5代目サンバー・バンは、今夏ヴォルテッラで発見した。フェイスは日本仕様のサンバーと同じであるが、衝突安全のため日本のドミンゴ用バンパーが前後に装着されている。
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観光客で賑わう通りの脇道。小さな教会の脇の小さなスペースに、うずくまるように停められていたスバル・サンバー。


スバルついでにもうひとつ。こちらは初代ジャスティの後期型だ。2018年8月にシエナで目撃した。1994年が最終販売年だから、24年以上現役ということになる。

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スバル・ジャスティ4WD。


ダイハツ・テリオスも、ナンバーを見るとモデル販売終了の2006年登録ゆえ、もはや12年以上の個体だ。
参考までダイハツは2013年に欧州販売から撤退している。ボクが知る元ダイハツ・ディーラーの営業所長は、「田園部に住む人に、絶大な人気があった」と当時を懐かしんだ。
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ダイハツ・テリオス。ハンティングをする人にも好評だった。


2018年7月には北部クーネオ県で三菱パジェロ・ピニン、日本名パジェロ・イオに遭遇した。ご記憶の方も多いと思うが、デザインを手がけたのはピニンファリーナである。欧州仕様は生産もトリノ県にあるピニンファリーナの工場で行われた。そのスタイリッシュさで古さを感じさせないが、2004年生産終了だから最低でも14年選手だ。

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三菱パジェロ・ピニン。北部クーネオ県の小さな村で。2018年7月撮影。


今回紹介するうち最高齢と思われるのは、この初代日産バネットである。少なくとも車齢30年ということになる。前述のサンバーと同じヴォルテッラでのスナップである。極めて綺麗に保たれているのでよく見れば、ホテルの所有によるものだった。顧客の送迎にも使われているとみた。

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ホテルで使われている日産バネット。リアタイヤの奥にチラ見えする板バネが泣かせる。30年ものであるが、さすが客商売。清掃状態はなかなかだ。

古い日本車がなぜ生き残っているか?
答えは「ヨーロッパにライバルが皆無、もしくは少なかったから」そして「もう生産されていないから」である。

セリカに話を戻せば、たしかに1994年のクーペ・フィアット、1989年のオペル・カリブラといったクーペは存在した。だがセリカのようなエキゾティックかつアグレッシヴなスペシャルティカーはなかった。そして今日、類似する雰囲気のモデルは、もはや手に入らない。

「4WD」というのもミソである。コンパクトな4WDはイタリアの地方部における道路事情や駐車場事情に合致しているのだが、かつて意外に少なかったのだ。ジャスティやサンバー、テリオス、パジェロ・ピニンがそれに当たる。

日本の「軽」がベースのモデルは、初代フィアット・パンダが旧態化しつつもひたすら生産されていた1990年代に、「もう少しモダンなコンパクトカーが欲しい」という需要にぴったりだった。

さらに日産バネットのような小さなワンボックスはライバル皆無で、事実上のブルーオーシャン市場だった。

ボクが知るそうしたクルマのオーナー、もしくは元オーナーは、大抵がセカンドカーとしての使用だった。走行距離が限定的ゆえ、さらに持ちこたえてしまうのである。
ニューモデルの車両寸法が年々拡大されてしまっていることも、コンパクトな古い日本車人気を支えている。
つまり経済上の理由から無理やり酷使し続けられている「かわいそうな日本車たち」ではないのだ。

そうした近所の日本車がときおり消えてしまうときがある。そのたび「ああ役目を終えて廃車になったか」と寂しくなる。だが、しばらくしてひょっこり姿を現すのを確認しては、ホッとしているボクである。

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大矢アキオ ロレンツォAkio Lorenzo OYA在イタリアジャーナリスト/コラムニスト/自動車史家。音大でヴァイオリンを専攻。日本の大学院で比較芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。自動車誌...
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