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独特の目線でイタリア・フランスに関する出来事、物事を綴る人気コーナー
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世界中
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文と写真 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA

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2020年は突然F1の開催地にもなったムジェッロ・サーキット。たびたびヒストリックカーのファンイベントの舞台にもなる。

スピードの聖地だけではなかった

ムジェッロ(ムジェロ)と聞いて、多くのCOVO読者が思い浮かべるのはサーキットであろう。
全周5,245kmのムジェッロ・サーキットは、長年にわたりロードレース世界選手権(モトGP)イタリア・グランプリの開催地として知られてきた。2020年9月には史上初のF1トスカーナ・グランプリが催されたことをご記憶の方も多いだろう。

こうしたレース以外にも、週末にはヒストリックカーやファンイベントに、さらには市販前車両のテスト走行にも年間を通じて使われている。

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MINIのインターナショナル・ミーティングにて。

このムジェッロ、イタリア中部フィレンツェ旧市街からクルマで北へ約35km、およそ1時間の山間にある。筆者が住むシエナからも、クルマで1時間半程度の場所だ。

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ムジェッロ・サーキットに向かう途中で。草むらに突如現れるフェラーリを模したと思われるオブジェ。

レース期間中、周辺の宿やアグリトゥリズモは、毎回大繁盛となる。サーキットからクルマで約7分ほどのところにあるスカルペリーア・エ・サンピエロ(以下スカルペリーア)も、そうした宿が数々あるエリアだ。

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スカルペリーアの旧市庁舎は15世紀に歴史をさかのぼる。サンピエロ町と合併する前は、長く市役所として使われていた。


人口1万2千人のこの村は、高級ナイフ産業で知られる。毎年秋に開催される「ナイフ祭り」では、多くのプロやアマチュアが自らの作品を展示・販売するほか、遠くアメリカなど海外からも人々が訪れる。

一部工程の外注化が進んだなかでも、市内で全工程を手掛けている数少ないナイフ製作工房「フォンターニ」は、アレッサンドロ氏とヤコポ氏という2人が営んでいる。

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カスタムナイフ作りを生業とするアレッサンドロ・フォンターニ氏(右)とヤコポ・ガニャルリ氏(左)。全工程を手掛けられるナイフ職人としては、町内で最も若い。


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2人が手掛けるブランド「フォンターニ」。小さな店内だが、オーダーは世界中から舞い込む。

なぜナイフなのか?を地元の人に聞くと、意外にも地理と関係があった。

旅人の必携品から

2人は店の前を通る1本の街路を指した。一方通行路と、左側に縦列駐車用のゾーンがあるだけの道だ。しかし、それは、れっきとした県道である。
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スカルペリーアの旧市街を南北に貫く一方通行路は、実は県道である。

彼らは説明する。「これはフィレンツェと北のボローニャを結んでいた、まさに旧街道です」。
フィレンツェが栄えた15世紀に旅人に往来が盛んになったのにあわせて、周辺に宿が増えていった。

16世紀に歴史をさかのぼる旧市役所・ヴィカーリ宮殿には、古来から旅人の安全を守る守護聖人として崇められ、今でもたびたび日本でいうところの交通安全ステッカーにもなっている「聖クリストフォロス」のフレスコ画が残る。

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スカルペリーアの旧市庁舎入口に描かれた聖クリストフォロス。伝説では、幼いキリストを担いで川を渡ったという。

ボローニャとの間には、今もアペニン山脈が横たわり、スカルペリーアは、それを超えるジョーゴ峠を前にして最後の町であった。

旅人たちは、住民が自ら作り、農作業や食卓で使っていたナイフに注目。そして携行した食材を切るなどのためにナイフを買い求めるようになった。
そのためスカルペリーアではナイフ作りが盛んになり、その高いクオリティは各地に伝えられていった。
碓氷峠の麓・群馬県横川の弁当が「峠の釜めし」であることからすると、こちらはさながら「峠のナイフ」である。
町内には古い刃物工房跡もあって公開されている。案内してくれたガイドによれば、個々の工房が家族やごく少数の職人で営まれていたのは、技術の流失を防ぐためだったという。

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20世紀初めから1970年代まで使われていた刃物工房跡。


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工房跡に残されている当時の工具。


その後、複数回にわたる大地震や、18世紀中盤に開通し、今日でもヒストリックカー・ラリー「ミッレミリア」のコースになっているフータ峠が開通すると、スカルペリーアは衰退する。

しかし、1861年に半島が統一された後に誕生したイタリア王国は、パリ万博などに参加し始める。そうしたチャンスに、スカルペーリアの刃物職人たちは積極的に出展し、国外に市場を開拓した。

 

近年は、前述のように、より手工芸的なカスタムナイフ志向を強め、世界のファンの垂涎の的となっている。フォンターニの2人も、1本を仕上げるのにおよそ3週間をかける。

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フォンターニによるカスタムナイフから。ケースは水牛などの角から作る。


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こちらは同じフォンターニによる髭剃り用ナイフ「バーチャミスービト」。Baciamisubitoとはイタリア語で「すぐにキスして」の意味。


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彼らの店は、500年以上もの間、人々が往来した街道に面している。

ちなみに今日、同じ区間は“アウトソーレ(太陽の道)”の別名をもつ高速道路A1号線を用いる。
フィレンツェ-ボローニャのインターチェンジ間は、クルマで僅か30分ちょっとである。
いっぽうで当時は、道を阻む枝を切り落としたり、場合によっては出没する盗賊から身を護るためにもスカルペリーアのナイフを買い求めていたという。
旅が、今とは比べ物にならないくらい冒険に満ちていた時代。はからずもそれに思いを馳せたサーキットの里だった。

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スカルペリーアの町内で。イタリア自動車クラブが20世紀中盤に貼り付けたと思われる道路標識が今も残されていた。
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文と写真 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA
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2021年1月に初めて目撃したスズキ・スウェイス・ハイブリッド。イタリア価格は税込23,400ユーロ(約304万円)から。以下いずれもシエナと近郊で撮影。


欧州限定ブランド“トヨズキ”?

筆者が住むシエナ市内で、少し前のことである。一旦通り過ぎてから振り返って、しげしげと見てしまったクルマがある。
ノーズにスズキの「S」バッジが輝いているにもかかわらず、どこかスズキらしくない。
フロントフェンダーには、トヨタ車のそれと同じ「Hybrid」のバッジがある。そもそもスタイル全体が、どう見てもトヨタである。

その名はスズキ「スウェイス・ハイブリッドSwace Hybrid」。トヨタが欧州で販売しているハイブリッドのワゴン「カローラ・ツーリングスポーツ」のOEM版であった。

このクルマの誕生には背景がある。
2019年8月、スズキとトヨタが資本提携に関する合意書を締結したのは、読者諸氏もご記憶と思う。

スズキはヨーロッパ市場で、ひとつの問題を抱えていた。欧州連合(EU)が2020年から段階的に導入した二酸化炭素(CO2)排出量基準である。乗用車1台あたりのCO2排出量を95g/kmと定め、1g超過するごとに95ユーロ(約1万2000円)の過料を科すという厳しいものだ。CO2の超過量に新車販売台数を掛けて、平均値を算出したうえでメーカーに支払いを命ずる。

加えて、ラインナップ中で車両重量の合計が軽いメーカーに対しては、より厳しい基準のg/kmが適用される。
このルールは、小型車中心のスズキにとって明らかな不利であった。さらに、2019年に発売された欧州仕様「ジムニー」に搭載されるエンジンは1.5リッター自然吸気のみで、そのCO2排出量は178kg/kmに達していた。
これ以上の台数を販売するとブランド全体としてのペナルティーが増してしまうことを危惧したスズキは、欧州で2020年型ジムニーを敢えて完売扱いにしてしまったほどだった。

そうした問題を解決するスズキの切り札として導入されたのが、提携先であるトヨタ車のOEM版である。
第1弾として2020年秋に欧州市場で導入されたのは、トヨタ「RAV4」のOEMであるプラグインハイブリッド車「アクロスAcross」だった。
それに続くかたちで2021年初頭に欧州市場に投入されたのが、今回目撃したスウェイスというわけだ。
ちなみに、イタリアの自動車ウェブサイト「アウトモト・プントイット」は、さっそくそれらを“トヨズキToyoZuki”なるニックネームで括っている。

そこで今回は、これまで筆者がイタリアの地で出会ってきた、海外限定の日本ブランド車についてお話ししよう。

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地元販売店によるスズキの屋外広告。スウェイス・ハイブリッドは一番右に、アクロスは右から3番目に、さりげなく入っている。

帰国子女感漂うクルマたち

ところで、かつて東京で少年時代を送っていた頃の筆者は、日産「セドリック」と「グロリア」はもちろん、「ホーミー」と「キャラバン」といった商用車の姉妹車まで見分けられる自分を密かに誇りに思っていた。

しかしイタリアに四半世紀も住むうち、もはや日本の路上には見たことがない姉妹車やOEM車が満ち溢れてしまった。おかげで、かつての自信は完全に喪失してしまった。

それでもヨーロッパの路上で、スズキ・スウェイス・ハイブリッドのように、日本ブランドの海外専用車とすれ違うと、何か感じるものがある。それはちょうど、日本人のようでどこか雰囲気が違う、帰国子女が醸し出すオーラに近いものといってよいかもしれない。

最初は写真のマツダ「121」である。1990年代中盤、スペイン・アルムサフェス工場で生産された4代目「フォード・フィエスタ」の姉妹車だ。

ちなみにフォードのオペレーション下にあったマツダが、121の名称を、時代によりさまざまな形で使い回してきたのが面白い。
順を追って説明すると、最初は1975年2代目「コスモ」レシプロエンジン版の海外仕様に用いている。
しかし1988年からは、マツダが海外で展開するコンパクトカーのモデル名になる。
つまり、まったく車格が違うモデルの名前にしてしまったのである。
具体的には、日本における初代フォード「フェスティバ」の姉妹車であるキア「プライド」にマツダ121の名を冠したのだ。
続いて1991年には、オートザム「レビュー」の海外版に用いたあと、フィエスタのOEM版に使った。

きわめてポピュラーだったフィエスタではなく、敢えてマツダ版を買ったオーナーとは、どのような人だったのか、今も気になる。

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フォード・フィエスタをベースに造られたマツダ121。2007年撮影。

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マツダ121のリアスタイル。2005年撮影。


次は同じマツダの「Bシリーズ」である。往年における同社製ピックアップ・トラック「プロシード」が日本での販売を終了したあと、モデルチェンジされて生き延びたものと考えていただければよい。
イタリアでは、とくに4×4仕様車が防災機関に納入された実例を目にすることができる。

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市民保護局の森林消防隊で活躍するマツダBシリーズ。2007年登録ゆえ、2019年の撮影時点で12年選手である。


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こちらは民間のものと思われるBシリーズ。かなり年季が入っている。2021年1月撮影。

日産「キュービスターKubistar」はルノー-日産アライアンスによって誕生した商用車で、初代ルノー「カングー」をベースにしていた。フロントには、Vモーショングリルに到達する以前、日産が展開していたウィンググリルが与えられていた。2008年に同車が2代目に移行するまでフランスで生産された。

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シエナ歴史的旧市街に佇んでいた日産キュービスター。2007年撮影。


地道にブランドを支えていた

最後は、数年前までシエナの旧市街によく佇んでいた不思議な1台だ。
フロントグリルには「六連星」が付いているものの、SUBARU感が無い。
「ジャスティG3X」というそれは、スズキのハンガリー工場であるマジャールスズキ社製 2代目「イグニス」のOEM版として、2004年から2008年まで存在したモデルだった。
当時、SUBARUの富士重工業(当時)とスズキが、いずれも米国ゼネラル・モーターズ社のグローバル・ネットワーク下にあったことによる。

新車当時はどのようなクルマだったのか?
今回の執筆を機に、シエナのスバル販売店でサービスフロントを担当している知人に聞いてみた。
すると意外な答えが返ってきた。
「“純粋スバル”でなかったし、品質は本当の日本製からすると、やや古いレベルだった。それでも大きな問題はなかったね」。そしてこう続けた。「それに、よく売れたよ」

ところで近年、ヨーロッパで日本車は、ポピュラーブランドからプレミアムブランドへの転換を図りつつあり、その一部は成功しているといってよい。
マツダは「鼓動デザイン」導入以降、新たなイメージを構築しつつある。価格もレッドオーシャンでの戦いからの脱出を遂げつつある。日本の消費税に相当する付加価値税が22%と高いこともあるが、最も手頃なモデルである「マツダ2」でも18,300ユーロ(約238万円)からである。

日産も、SUV/クロスオーバーが充実したブランドとして定着した。そしてSUBARUも、すでに独自のポジションを獲得している。事実、先ほどのサービスフロントマンが務める会社の経営者は、「かつてのサーブの顧客を、SUBARUが吸収したといっても過言ではない」と証言する。

思い起こせば、ダイハツがヨーロッパから撤退した2013年前後、他の日本ブランドに関しても、欧州展開縮小、もしくは撤退の噂が囁かれた。

そうしたなかでも、アイデンティティの構築を待ちながらブランドを地道に支え、各地の販売店でセールスに貢献したのは他でもない、今回紹介した過去の日本ブランド車たちだった。
彼女たちがなければ、今はなかった。だから路上で出会うたび、筆者は深い敬意を表するのである。

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SUBARUジャスティG3X。2016年撮影。

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SUBARUジャスティG3Xのベースとなったスズキ・イグニス。2015年撮影。

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SUBARUジャスティG3Xは、ゼネラル・モーターズの戦略下で誕生したモデルだった。2016年撮影。
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文と写真 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA

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ビアカフェ「ビチ・エ・ビッラ」のルカさん(左)とパートナーのアンナさん(右)。

イタリア人、実はビール好き

イタリアを代表する自動車の都・トリノで、不思議な名前の店を見つけた。「Bici & Birra」訳せば、「自転車とビール」である。

イタリアのアルコール飲料といえば、ワインのイメージがある。事実、生産量ではスペインとフランスを押さえてヨーロッパ最大の生産国だ。
しかし近年この国で、めきめきと存在感を増しているのがビール、それも小さなブルワリー、つまり醸造所で作るクラフトビールである。
その勢いは、数で明らかだ。
農業団体「コルディレッティ」によると、イタリアでクラフトビールのブルワリーは2008年には僅か113カ所に過ぎなかったところが、2017年には718カ所と、6倍以上に増えている。そして年間生産量は5千万リットルに達している。

各地の街でも、ここ5年ほどでクラフトビールを提供するビアカフェをたびたび見かけるようになった。
筆者が住むシエナのような学生街ではなおさらで、以前から1軒あったアイリッシュ・パブの影が薄くなってしまったほどだ。ふたたび前述の農業団体によると、英国やドイツ製など外国製ビールのシェアは激減しているという。

さらにイタリア人1人あたりの年間ビール消費量は、およそ31.5リットル。350ミリリットル入り缶に換算すると約90缶に相当する。すでにかなりの量だ。
筆者が、「それでも依然ワインのほうが飲まれているのではないか」と思って調べてみると、その1人あたり年間消費量は41,5リットル。ビールより僅かに多いだけだった。

筆者の知人で40代の男性も「価格がワインよりも手頃なこともあって、もはやピッツァのお供は、ビール一択になった」と証言する。そして、こう付け加えた。「ワインだと1本空けられないしね」。
核家族化が影響していることもたしかだ。

加えて、以前筆者が取材したあるブルワリーは、イタリア人のフルコースに合わせ、前菜、第1の皿、第2の皿、デザート…とそれぞれの料理に合わせた味のビールをリリースしていた。ブレイクの背景には造り手の努力もある。

自転車とビールの“ハイブリッド”

さて、冒頭の「自転車とビール」を訪ねてみると、その正体はビアカフェだった。
場所はトリノのシンボルである王宮の、ちょうど裏側である。
8席+カウンターの店内のほか、外にも席がしつらえられている。


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店内には、クラフトビールがブランド別に並ぶ。その上には自転車用アクサセリーの販売品が。


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コースター。Bici e Birraとは、「自転車とビール」の意味。自転車工房とビール店との説明書きも。


店主のルカさんとパートナーのアンナさんの自慢は、ご当地クラフトビールの豊富さである。
参考までに、トリノがあるピエモンテ州と隣接するロンバルディア州は、いずれもイタリアのクラフトビール醸造所数でトップ3に入る。前者には127、後者には249の醸造所がある。

 

ブームが始まった時期を反映し、大半は若いブルワリーである。
コモで1996年創業したという「ビリフィチョ・イタリアーノ」のビール「ティーポピルス」をサーバーで注いでもらう。
泡が繊細、かつそのスパークル加減が心地よい。ホップの風味を感じさせながらも、ほのかに花の香りも鼻を満たす。
ほかにも「栗風味」「プラム風味」はトリノ県、「桃風味」は隣のピエモンテと、近隣地域のブルワリーによる、それも特徴あるプロダクトばかりだ。

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トリノ県の山岳地方を本拠とするアレーゲ社が造る栗風味のビール。名前の「ラ・ブルサタ」とは煎った栗を意味する。


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壁には、トリノをはじめとするいにしえのイタリアのものを中心にビール&自転車工房の広告が。

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トリノのラヴァービア社が造る「ビアブルーニャ」は、プラム風味。

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飲んでいる間もペダルを漕いでいたい人のために、このようなスツールも。つまみにはパニーノやハム盛り合わせが有り。

しかしながら最高にユニークなネーミングのクラフトビールがあった。「モーターオイル」だ。トリノのベーバという、こちらも1996年創業のブルワリーのものだ。
見た目がオイルに似た黒ビールであることに加え、イタリアのビール基準でアルコール分3.5%、糖度14.5度以上の強いビールに許される呼称「ダブルモルト」、さらに本拠としている建物が地元の古い工場跡であることにちなんでのネーミングなのは明らかだ。

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トリノのベーバ社による黒ビールは、その名も「モーターオイル」。アルコール度6.8%と強め。

気がつけばディスプレイされたビールの上には、サドル、フレームに付けるボトルといった自転車用品も販売品として並べられている。さらに見上げればロードバイクのタイヤや、それを模した照明が。なるほど、これで「自転車とビール」か…と納得しようとしてカウンター奥を見ると、自転車のリペアショップがあるではないか。その向こうには裏口が。実はビアカフェと自転車店の“ハイブリッド”だったのだ。

小さな間口の大きな志

ルカさんは1975年生まれ。もともとは電気関係の世界で働いていた。仕事は順調だったが、ビールと自転車双方へのパッション捨て難く、3年前に開業したという。
「とくにビール飲むのが好きでたまらなくて始めたんだよ」とルカさんはおどけてみるが、実際はもっと深い理由があった。
クラフトビールは基本的に小さな業者である。「造り手とのダイレクトな触れ合いが楽しんだよ」
今どきのビジネスでは、なかなか得られないものという。
彼は、それをサッカーのリーグに例えて説明する。「彼らは小さくても、けっしてセリエB(2部リーグ)ではない。ひとりひとりが質の高いプレイヤーなんだ」

いっぽう地元の自転車事情についてはこう話す。「トリノはもともと自転車には向かない街なんだ」。たしかに旧市街と地方部を除けば、立体交差や巨大なロータリーなど、フィアットが隆盛を極めた時代に自動車中心の都市計画が行われたため、サイクリストにとって楽しい街ではない。
市では2020年から自家用車の通行量削減を目指して、100kmに及ぶ自転車・電動キックスケーター用レーンが整備され始めたが、道半ばだ。
「自転車盗難も多い。巨大な南京錠がいつも必要だよ」と笑う。

そしてこの地で自転車を語るとき、もうひとつ問題がある。
「ビアンキ」をはじめ数々の名門自転車ブランドを生んだ国であるものの、近年は郊外の巨大ショッピングセンターに並ぶ新興国製の安価なモデルに征服されつつある。イタリア人が長年培ってきた良いものを長く使う習慣は、ここトリノでも薄れつつある。
「自転車がどんどん使い捨てになってゆくことが残念でならなかったんだ」。ルカさんはそう熱く語りながら、お客さんが途切れる合間を縫ってスパナを握った。

「人との触れ合い」と「モノへの慈しみ」。その店は、小さな間口から想像できない大きな志を抱いていたのであった。

Bici & Birra
Corso Regina Margherita 108 - 10152 Torino
水・木  16-23時
金・土  16-24時
日    18-22時
(新型コロナ営業規制により、営業日・時間に変更あり)

 

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店の半分は自転車の修理ブース。ルカさんの理想が店となった。

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サーバーで注いだばかりのビールに軽やかな泡が踊る。
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フランス車専門パーツショップ「デ・マルコ・パーツ」の店主、マッシモさん。かつて地元サッカーチームの選手としても活躍していた。堂々たる体格は、そのためだった。

空冷VWショップで修行

今年に入ってから風の便りで、筆者が住むシエナの隣町にフランス車パーツの専門店があることを知った。
連絡をとると、受話器の向こうの店主は「君のことを前から知っている」という。不思議に思いながら、我が家から約30kmのところにあるショップを目指した。

所在地を頼りに辿り着くと、倉庫街の一角だった。張り紙が指し示すまま呼び鈴を鳴らす。
鉄扉が開くと、赤いルノー4が顔を覗かせた。隠れ家食堂的な感覚である。

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その店は、シエナ県ポッジボンシ市の倉庫街にあった。

店主のマッシモ・デ・マルコさん(1984年生まれ)は、長身の若者だった。
到着の挨拶もそこそこに、なぜ筆者のことを知っていたのかというと、彼が以前も自動車パーツ販売業界に携わっていたからだった。
「イベントで、何度か君を見かけたことがあるんだよ」。

高校を卒業後、19歳で就職した。
ところが勤め始めてみると甘くなかった。毎日注文の電話を取るたび、自分の知識をはるかに超えた細かいパーツの名前が次々と耳に飛び込んできた。
彼は、ガールフレンドの父親が所有していたガレージを借りることにした。
「標本になる車を持ち込んでは、毎晩夜遅くまで分解・組立を繰り返して、どの名前のパーツがどこに付いているかを覚えていったんだ」
努力家である。ちなみに、そのガールフレンドが今の夫人だ。

フランス車は“外車”にあらず

いっぽうプライベートのマッシモさんは、フランス車のもつキャラクターに魅せられていった。
ここでイタリアにおけるフランス車事情を説明しよう。
この国でルノーやシトロエンは、長年フィアットやオペルと同じポピュラーカーであり、外国車という意識はなかった。

とくにルノー4は、人々にとってイタリア車に限りなく近い認識だったといってよい。
当時の大衆車に珍しく大きなテールゲートをもっていたことから、貨客兼用車としてイタリアでも絶大な人気を誇ったのだ。
「同じフランスの大衆車であるシトロエン2CVより愛用されたのも、それが理由だったんだよ」とマッシモさんは語る。たしかに生産終了後30年近くが経過した今でも、農家や左官屋さんの軒先で、筆者もたびたび見かける。

参考までに、ルノー4は、1962年から1964年まで提携先であったアルファ・ロメオの南部ポミリアーノ・ダルコ工場でも組立生産されていた。1962年統計によると、イタリアでは10,686台のルノー4が販売され、ルノー・ブランドをフィアットとアルファ・ロメオに次ぐ3位に押し上げる原動力となった(データ出典:パノラマ電子版 2019年5月29日)。

いっぽう近年は、趣味として古いフランス車を楽しむ人も増えてきた。
「イタリアの古典車好きは、エンジンやスポーツマインドに惹かれるのにたいして、古いフランス車ファンは、スタイルや優雅さに魅せられるんだよ」
数々の人が筆者に語ったところによれば、1970年代から80年代初頭のイタリアでシトロエン・ディアーヌは自由の象徴であった。その前の時代であるヒッピー文化への憧れと、2CVよりも馬力が多く実用的であったことが背景にあった。
シエナ出身の元F1パイロット、アレッサンドロ・ナンニーニも免許を取得してすぐに乗ったのは、シトロエン・ディアーヌだったと筆者に明かしている。

気がつけばマッシモさんは、ルノー4、シトロエンDS(Dスペシァル)といった数々のフランス車を乗り継いでいた。
そして市場が熟したのを確認した彼は、昨2019年秋に自身のパーツショップ「デ・マルコ・パーツ」を開業した、というわけだった。

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2019年秋に開業した「デ・マルコ・パーツ」の店内。倉庫ブースも含めて500平方メートルと広い。左脇のルノー4史上初の3速となった1968年式。ただしバッテリーは、まだ6ボルトである。

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歴代ルノーのバッジ類。ドフィンのデラックス仕様であったオンディーヌのものも見える。


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普段は入れないパーツ庫コーナー。整然とした棚は、空冷VWショップ修行時代に叩き込まれた良き習慣だ。足元には、リプロダクションのルノー4用フロントフードが。

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見上げれば、シトロエン・アミ8のフロントマスク。

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ルノー・ドフィン・ゴルディーニのダッシュボード。

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オリジナルのパーツも多数。箱には「世界のルノー純正パーツ」の文字が誇らしげに。

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モデル末期のルノー4に使われていたファブリックもロールでストック。

オーダーは地中海も超えて

開業には苦労もあった。メーカー公認の有名リプロダクション専門ファクトリーがあるシトロエンと違い、ルノーのパーツはさまざまなルートから揃えなければならなかった。
一部の仕入れには、最小単位も厳格に設定されていた。
たとえば、ルノー4のウィンドーシールド用ゴムは最低4000メートル、つまり4km分を仕入れる必要があった。

フランス車のお客さんとは?
「フランスの古い車は今も比較的安いので、そのシンプルな魅力に引かれた若者が関心をもつことが多いんだよ」
ただし最近は、「貧乏だった若い時代にお世話になった車を懐かしんで、フランス車を買い求める富裕層もいるんだ」とマッシモさんは解説する。

先述の実用車が多いという事実を証明するようなこともわかった。
「毎日乗っている人からも、パーツの照会がたくさん来るんだ」
その証拠に、彼の店で古いフランス車のパーツを買い求めるお客さんの6割が、セカンドカーではなくファーストカーとして使っているという。

たちまち地元のルノー販売店はもとより、ルノーのイタリア法人でさえ、古い車の問い合わせがあるとマッシモさんの店の電話を案内するようになった。
「つい先週末は、モロッコにパーツを発送したよ」
マグレブ諸国、つまり北アフリカの旧フランス植民地では、古いルノー車がフランスやイタリア以上に現役で使われているが、良質な品を確実に手に入れられる評判からマッシモさんの店に辿り着いたのだろう。
開業からまもなく1年。早くも彼の店は、地中海の向こうのユーザーからも頼りにされ始めている。


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往年の指定サービス工場用整備マニュアルのライブラリー。

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本棚のごとくルノー4のドアが並ぶ。

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こちらのルノー4は1972年式。信頼できるカロッツェリアやメカニックと連携して、レストアも手掛けている。


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「今日の車にないシンプルさや、スパルタンなキャラクターで、若者たちも魅了している」とマッシモさんは話す。


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ショールームには、懐かしい指定サービス工場や販売店の看板が。


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マーシャルのディストリビューター片手に、オーダーの電話に応じるマッシモさんは36歳。
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witten by Akio Lorenzo OYA
世界中
うんうんする
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文と写真 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA

シェフのおまかせコース

アルフィスタならご存知のとおり、2020年はアルファロメオにとって110周年のアニバーサリーイヤーだった。これは、前身であるロンバルディア自動車製造有限会社(A.L.F.A.)が1910年に発足したことによる。

2020年、ミラノの北西アレーゼにある企業ミュージアム「アルファロメオ歴史博物館」は3月から新型コロナ対策の休業命令により休館していたが、6月末に土日限定で再開した。

アルファロメオの創立記念日である2020年6月24日には、記念イベントが開催された。こちらも安全対策としてリアル参加者と車両数は限定されたが、代わりにストリーミング放送でその模様がライブ配信された。

再開した博物館では、もうひとつ特別企画がスタートした。それが今回紹介するバックヤード・ツアーである。予約制で、約1時間半をかけて非公開の車両保管フロアをめぐる企画である。1976年の開館以来初の試みという。

まずは企画展「バックステージ」を見学して開始を待つ。こちらにも常設展にない幻のワンオフや、世に出なかった試作車・試作品が数々紹介されている。

ブースで異彩を放つオーブンは、第2次大戦末期、戦後事業を模索すべく疎開先であるオルタ湖畔の設計室で試作されたものだ。価格が定められ販売網まで構築されていたが、最終段階で発売に至らなかったという。熱源は電気とガス。今ふうにいえばハイブリッドだ。日本のいくつかの自動車メーカーも終戦直後、家庭用品を作って糊口をしのいでいたことは知られるが、さすがアルファロメオ。目指していたレヴェルが違う。

1983年にローマ教皇ヨハネ・パウロⅡ世がミラノを訪問した際に用いられた「アルファ6」も展示されている。

車体、ガラスともに厳重な防弾仕様が施されているのは、同教皇がその2年前から2回にわたって遭遇した暗殺未遂事件を念頭に置いたことは疑う余地がない。

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まずは企画展「バックステージ」から。第2次大戦末期、疎開先の設計室で開発されたオーブン。

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1959年に試作された「ジュリア」の公道試験車。アルファロメオと分からないようにカモフラージュされ、隣国の旧ユーゴスラビアでテストが行われた。


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1960年の試作車「ティーポ103“ピドッキオ”」は、横置エンジンの前輪駆動車。pidocchioとはイタリア語でシラミの意味で、デザイナーたちによってつけられた愛称であった。


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これは1972年「アルフェッタ」の機構説明に使われたもの。ショー会場でド・ディオン・アクスル、トランスアクスルなどが誇らしげに解説されていた風景が目に浮かぶ。


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1983年にローマ教皇ヨハネ・パウロⅡ世がミラノを訪問した際に用いられた「アルファ6」。

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ミラノ郊外バロッコのテストコースで使われていた「164 Q4」ベースの消防車仕様。

集合時間になると点呼のあと、普段は開放されていない階段に案内された。
ドアを開けた途端、迎えてくれたのは、赤いカバーが被(かぶ)せられた車たちだった。
保管庫に充てられた2フロアを合わせると、非公開車両の収蔵台数は150台以上になるという。




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カロッツェリア作品が並ぶ一角。一番手前は、イタルデザインによる1971年「カイマーノ」。攻撃的なスタイルだが、実は中身は「アルファスッド」である。左隣はザガートによる1983年「ゼータ6」。

スタッフのイレニアさんは、説明しながら次々とカバーを剥(は)いでゆく。
彼女の解説の内容は一般来場者だけなく、かなりのエンスージアストも飽きさせない。その口調からけっして丸暗記ではない。説明の合間に秘密は?と聞けば「パッシオーネ(情熱)です」と答えてくれた。FCAの人材選びは秀逸である。

1939年「6C 2500SSスパイダー・コルサ」は、あのベニート・ムッソリーニのお抱え運転手であったエルコレ・ボッラートが、トリポリのレースに駆ってでた車である。日本で菅首相を乗せて走るレクサスLS600hの運転手がル・マン24時間レースに出場するようなものと考えると、これは痛快である。

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1939年「6C 2500SSスパイダー・コルサ」


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アルファロメオといえば航空機エンジンが有名だが、その他の乗り物も。1920年の農業用トラクター(右)は2000台が造られた。1969年のパワーボート(左)は225.15km/hを記録した。

車両以外のさまざまな研究の軌跡も紹介された。1960年代にアルファロメオも研究していたロータリー・エンジンや、1980年代に着手したエンジンの総合電子制御システムは、その一例だ。後者は当時ミラノのタクシー1000台に搭載され、試験が実施された。


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名設計者カルロ・キティの考案によるレーシングカー用燃料タンク。消火剤を封入した弾性素材と組み合わせることにより、事故時の安全性を向上させた。




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開発時に、各種部品が収容できるかを検討するため作られたモックアップ。3Dプリンターが誕生するはるか前の職人芸である。


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世界のメーカーから夢の発動機と期待されていたロータリー・エンジン。アルファロメオも発明者であるドイツのヴァンケル博士からライセンスを取得し、1960年代半ばから開発に着手していた。


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1980年代に研究していたエンジンの総合電子制御システム。

かつてピニンファリーナ、ベルトーネ、イタルデザイン、そしてザガードなどがアルファロメオをベースに手掛け、ターンテーブル上でライトを浴びていたショーカーたちも静かに余生を過ごしている。いずれも往年のカロッツェリア・イタリアーナが、カーデザイン界を震撼させていた時代の名作たちだ。


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1971年ブリュッセル・ショーにピニンファリーナが展示した「33クーネオ」




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一角に置かれていたマケット。特徴的なウェッジと広いグラスエリアに目を引かれる。


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「SE048SP」。1990年代初頭にグループCレーシングカーとしてアバルトによって開発されながら、ついぞ実戦に参加することはなかった。


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アルファロメオ・デサインセンターとスイスのコーチビルダー「スバッロ」の協力により制作された2006年「ディーヴァ」。


この博物館のバックヤード・ツアーの嬉しさは、日常感が溢れていることである。
車両コンディションを維持すべく空調こそ効いているものの、ビジター用の順路が作ってあるわけではない。参加者は、ときに車と車の間の狭い隙間を抜けてゆく。
参考までに、写真撮影も自由だ。
一部の車の周囲には、いつのものか知れぬトロフィーや縮尺版クレイモデルが掃除されぬまま転がっている。
確認を経ていないので記すことは憚るが、「恐らくあの生産型のバリエーション案」と思われるものもある。ファンの目でしかわからない宝物も数々あるのだ。
解説ボードも、博物館のリニューアル前に使われていたものを片付けたままなので、近くにある車両と合致していない。
そこを巡るのは、ちょっとしたキュレーター感覚だ。
ヴェールがめくられ、ヒストリーが語られる車も、訪れてみないとどれかはわからない。
リストランテでいうところの“シェフのおまかせコース”だ。
とりあえず、2020年中は継続するとのこと。「期間限定メニュー」だとすると、これまたありがたみが増すのである。

アルファロメオ歴史博物館 Museo Storico Alfa Romeo-La macchina del tempo
Viale Alfa Romeo, Arese(Milano)ITALIA
開館日 2020年10月現在、土日のみ
時間 10:00~18:00 (入館は17:30まで)
一般12ユーロ
https://www.museoalfaromeo.com/it-it/Pages/MuseoStoricoAlfaRomeo.aspx

バックヤード・ツアー
完全予約制 土日のみ
6ユーロ(入館料別)
予約は上記サイトから


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「4C」の各国仕様の違いを解説するスタッフのイレニアさん。


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アルファロメオ歴史博物館のバックヤード・ツアーで。1991年ジュネーブで公開されたコンセプトカー「プロテオ」を紹介するスタッフのイレニアさん。
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大矢アキオ ロレンツォAkio Lorenzo OYA在イタリアジャーナリスト/コラムニスト/自動車史家。音大でヴァイオリンを専攻。日本の大学院で比較芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。自動車誌...
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