▲ Ferrari P6。一時期は淡いターコイズメタリックに塗られていたようだが、現在はホワイトパールに塗り直されている。当時のコンセプトカーはショーの展示に合わせて色を塗り替えるという例はよくあった。 果たしてFerrari P6(以降、P6)とは、どのような使命を課せられたコンセプトカーだったのだろうか。その“正体”とは何なのだろうか。 前編で触れたように、P6と、その直前に発表されたFerrari P5(以降、P5)を比較すると、そのデザイン的な方向性は大きく異なり、“P”で始まる車名を除けば関連性は乏しいように思える。 では、なぜP5とP6は“連作”と言われているのだろうか。その“鍵”は開発側の意図にあるようなのだ。 ▲ Ferrari P5。P6に先立つ、1968年のジュネーブ・ショーで発表された。 P5とP6。この二台には“空気”という共通の研究テーマが課せられ、その結果の上に成り立つ連作であったと、レオナルド・フィオラヴァンティ氏は語る。そう、P5とP6のデザインやエンジニアリングを指揮し、後にPininfarinaのデザイン・ディレクターを務めた人物である。 ▲ レオナルド・フィオラヴァンティ氏。学生時代からエアロダイナミクスの研究に勤しみ、彼をPininfarinaに引き寄せたのも、そんな研究課題があったからだ。背後に写るクルマは、氏が独立後の1994年に発表したFioravanti SENSIVA。やはりエアロダイナミクスに主眼を置いた一台だった。 それは外見的なエアロダイナミクスの追求だけでなく、車内で発せられる“熱”を“外気”で冷却し、効率よくボディ外部へと排出させ、さらには新鮮な空気をエンジンルームやコックピットに送り届けようとする、内面的な空気循環に着目したものだった。 ▲ Ferrari P5。余談だが、当時Alfa Romeoの社長を務めていたジュゼッペ・ルラーギの目に留まったP5は、役目を終えると、シャーシからボディが切り離され、そのままAlfa Romeo Tipo.33 Stradaleのシャーシに移植されてしまうという数奇な運命を辿る。 ▲ P5のエンジンはF1用のV12気筒エンジンを流用。レーシングプロトタイプのシャーシにF1のエンジンを搭載してしまうという、まさに“ドリームカー”だった。 1965年に発表し、フィオラヴァンティ自身もエンジニアリング及びデザインに関与したDino Berlinetta Specialeは走行を前提としないショーカーだったが、まさしく空気循環の欠如したクルマだった。一度、エンジンを点火しようものならコックピットは灼熱地獄となり、ドライバーは苦痛を味わう羽目になると、氏は回想する。 ▲ Ferrariのプレスカンファレンスに展示されたDino Berlinetta Speciale。 このような“リアリティーの欠如”がP5に“空気”という使命を課せ、ドライバビリティの向上に着眼させる動機となったのではないだろうか。 とはいえ、“未来予想図”という印象が拭えないP5から“現実的な”ロードカーを連想することは難しい。 ▲ Ferrari P5。一時期、パールホワイトのボディカラーを纏っていたことは、あまり知られていない。 そこで彼らはP5の研究成果をP6にフィードバックさせるにあたり、より現実的な条件下(デザイン及び設計)で課題に取り組もうとしたのであろう。そこには、例の“空気循環”に加え、エンジンとラジエターを循環する“冷却水”にも視野を広げ、その効果の最適化を検証・提案しようとする意図があったとフィオラヴァンティ氏は語っている。 かくして、Ferrari P6は1968年のトリノ・ショーで発表された。 だが、一つだけ留意しなければならない点がある。それはP6がモックアップであるということ。つまり、P6は走行どころか、エンジンも積まれておらず、あくまでもエンジニアリングとデザインをアピールするための“見本”だったのである。 ▲ Ferrari P6。当時、Pininfarinaのプレゼンテーションルームで撮影されたプレス写真。 それはLamborghini Miura P400の登場から2年が経ち、旧態依然なFerrari 365GT4 Daytonaをカタログの頂点に腰を据えるFerrariにとって、自分たちがMiuraに太刀打ちできる“策”を用意していることをアピールしたかったのかも知れない。 ▲ 生産ラインを流れるLamborghini Miura。 いずれにしろ、Pininfarinaは“空力”というテーマに新しいエンジニアリングとデザインの回答を求め、ライバルと差別化を図ろうと加速し始めたのである。 1972年にはトリノ郊外のグルリアスコに、ヨーロッパ初の原寸大風洞実験施設を竣工し、エアロダイナミクスに裏付けされたエンジニアリングとデザインを提供することに注力した。 ▲ Pininfarinaは風洞実験施設を他の企業や研究機関のために提供することもあった。その一例として、BMW 320i Turbo Group.5がグルリアスコで風洞実験を行う写真が残されている!。 それはロードカーに留まらず、例えば、当時のScuderia Ferrariはグルリアスコの風洞実験室にマシンや機材を運び込み、F1の風洞実験を行っていた。1970年代のFerrariのF1たちに見ることができる“Pininfarina wind tunnel”というスポンサーロゴは、まさしくPininfarinaがF1のサプライヤーとしても機能していたことを証明していたのである。 ▲ Ferrari 312T。白く塗り分けられたサイドエアインテークにPininfarinaの風洞実験を象ったスポンサーロゴを確認できる。写真は1976年のプレスカンファレンス。 しかし、すべては順風満帆とはいかなかった。決定権を握るエンツォ・フェラーリは「リア(スタイル)が重たい」とデザインを指摘し、P6を“お気に召さなかった”ようなのだ。 この反応に、PininfarinaとFerrariのデザイナーやエンジニアたちは何度も協議を重ね、結局、365GT4/BBの予告編とも言うべきFerrari Berlinetta Boxerを発表するまでに3年の歳月が必要となってしまう。 ▲ 1971年のトリノ・ショーで発表されたFerrari Berlinetta Boxer。このクルマもモックアップだった。余談ながら、当初は365GT4/BBのテールランプも4灯を計画していたが、製造側の予算問題で、やむを得ず既存のランプを流用した6灯となった。しかし、512BBでは4灯化を実現することができた。 この背後ではパオロ・マルティン渾身のFerrari Moduroを原案とするBerlinetta Boxerも考えられていたようだが、結果、P6を原案とするデザインが採用されたようである。 ▲ パオロ・マルティンによるFerrari Berlinetta Boxerのレンダリング。Moduroからデザインを引用し、発展させたものであることが理解できる。 フィオラヴァンティ氏は回想する。「実はBerlinetta Boxerより308GTBの方(デザイン)が先に出来上がっていたんだ。でも、未発表のデザインを12気筒より先に使う訳にはいかなかったから308GTBの登場が遅れたのさ」と。この言葉の中にBertoneが唯一デザインしたDino 308GT4の存在を忘れてはならない、と私は思う。Dino 308GT4の登場は1973年だったが、奇しくもFerrari 365GT4/BBの発表と重なる。 ▲ Ferrari 308GTBは1975年に発表された。写真は1976年ごろにフィオラノ・サーキットで撮られたフレスフォトだろうか。ニキ・ラウダとクレイ・レガツォーニ、そして312T2の姿も確認できる。 P6を“母親”と考えるならば二人の姉妹、365GT4/BB(1973年)と308GTB(1975年)を生み出したことになる。 この姉妹は、それぞれの成長を遂げたが、1984年に512BBiはTestarossaへ刷新され、そしてフィオラヴァンティ氏がPininfarinaを去った数年後の1989年、328GTBは348tbにバトンを譲った。それは新しいイデオロギーを持ったデザインに世代交代し、長年に亘るP6のデザイン・テーマが幕を閉じた瞬間でもあった。 ▲ 1989年に登場したFerrari 348tb。写真はそのデザイン・プロポーザル(モックアップ)だが、実は、発表よりもかなり以前からデザインは出来上がっていたという噂もある。やはりV12モデルより先にV8モデルがデザインを変更することは許されなかったのだろうか。 P6の発表から間もなく50年を迎える。70年代から80年代にかけてFerrariを支えたP6のデザイン・テーマを現代のFerrariに見ることはできない。 しかし、フィオラヴァンティ氏が私に「リメイクは嫌いだが、オマージュは捧げる。そのデザインを観た時に、過去のデザインが、ふと頭に過るぐらいが良いと思う」と語ってくれたように、現代のFerrariデザインにも何らかの形で還元されているのではないかと思う。 今日のFerrariを大河に例えるならば、P6はその源流の一つとして今もフェラリスティの心に刻まれているのではないだろうか...。 ▲ フィオラヴァンティ氏、そしてP6とBerlinetta Boxer(モックアップ)。
最後に。数年前、今もPininfarinaに保管されているFerrari P6を拝見することが許された。それは予てから漏れ伝わっていた“ある噂”を検証するためだ。 私は床に這いつくばり、露出したフレームを確認した瞬間、思わず叫んでしまった。 「やっぱりディーノのシャーシだ!」と...。
▲ Ferrari P6。今回の主役である。 1968年、トリノ・ショー。Pininfarinaが自らのブースで発表したFerrari P6(以降、P6)は、後のFerrari 365GT4/BBに始まるBerlinetta BoxerシリーズやFerrari 308GTBなど、十数年に亘るロードゴーイング・フェラーリの“スタイル”を決定づける存在となった。 それは1984年のFerrari 288GTO、翌85年のFerrari 328GTBにも引き継がれ、実に1990年代直前まで続くこととなる。これほど長いスパンで一つのデザインが存在し続けたことは、Ferrariにとっても異例と言える。 ▲ Ferrari 288GTO。Ferrari 308GTBから派生したデザインだが、これもP6に源流を求めることができる。フィオラヴァンティ氏曰く「エレガンスと力強さを兼ね備えた、まさにフェラーリらしい一台」とのこと。 1968年と言えば、Ferrari 365GTB/4 Daytona(以降、Daytona)の発表と重なるが、P6のデザイン・アイディアがDaytonaの後継者たるFerrari 365GT4/BBの登場まで市販化を待たなければならなかったことを考えると、いかに早い段階で“次世代のスタイリング”が出来上がっていたかが理解できる。 ▲ Ferrari 365GTB/4 Daytona ▲ Ferrari 365GT4/BB 果たしてP6誕生の背景には、どのようなプロセスが隠されていたのだろうか。どのような思惑があったのだろうか。そして、どんなメッセージが隠されているのだろうか...。その“正体”を考究してみたいと思う。
Ferrariにとって1968年は、先述のDaytonaやDino 206GTといった、二台の名車が生み出された“当たり年だった”と振り返ることができる。 しかし、当時の自動車業界。というよりも、Ferrariが主眼を置いていた市場(現代で言うスーパーカー市場)は、前年に生産を開始した、あのLamborghini Miura P400(以下、Miura)に話題を独占されていたのである。 ▲ 1965年のトリノ・ショーに先行展示されたシャーシ、Lamborghini TP400。レーシングカーを模倣するような設計に、多くの人々が驚き、目を疑ったが、しばらしくてMiura P400と名を改め、現実のもとなった。 ▲ 1966年のジュネーブ・ショーで発表となったLamborghini Miura P400。この時点ではプロトタイプの域を出ていなかったが、生産モデルが完成するまでに、さほど時間はかからなかった。 Bertoneによる流麗なスタイリングはもちろんだが、V12気筒エンジンをコックピット後方のミッドシップに横置きマウントした独創的なアイディアは、当時、どれだけセンセーショナルな存在だったか、これまでも数多く語られている。 それはメディアやマーケットの反応ももちろんだが、何より驚きと焦りを感じていたのはFerrariとPininfarinaだったに違いない。 ある雑誌のインタビューに答えた元Pininfarinaのデザイナーは、当時、社内が“ミウラの亡霊”に苛まれたと回想している。 ▲ プロトタイプのMiuraの前に立つ、ヌッツィオ・ベルトーネとフェルッツィオ・ランボルギーニ。彼らの蜜月はFerrariとPininfarinaを脅かす存在となる。
もちろん、予てからFerrari社内でもリアミッドシップ・レイアウトのロードカーを開発しようとする声はあったが、それに否定的な姿勢を示したのは、誰でもないエンツォ・フェラーリだった。 ▲ Ferrari 250LM Berlinetta Speciale。N.A.R.T.率いるルイジ・キネッティとPininfarinaによって提案されたロードゴーイング・ミッドシップ・フェラーリ。同様の提案は365P“Guida Centrale”にも受け継がれ、こちらは2台が製作された。 一説よれば、エンツォは“フェラーリの顧客リストに名を連ねるような人々が新しい機構(リアミッドシップ・レイアウト)を操れるだけの技量を持っているだろうか?”と苦言を呈していたと言われているが、これには60年代初頭に相次いだFerrari 250GT Coupéによる欠陥事故の訴訟が頭をよぎり、保守的な考えが先行したのかもしれない。 ▲ Ferrari 250GT Coupé。余談ながら、これを購入したフェルッツィオ・ランボルギーニもクラッチの欠陥事故に見舞われFerrariに抗議した。それが“新たなる伝説”の幕開けとなったことは言うまでもない...。 いずれにしろ、表向きには毅然な態度を貫いていたFerrariとPininfarinaだが、紛れもなくMiuraという存在は彼らの牙城を脅かし、その危機感はDino Berlinetta Specialeの登場(1966年)を急がせたとも言われている。 ▲ Dino Berlinetta Speciale。1966年9月のパリ・サロンで発表され、その反響にPininfarinaとFerrariも手応えを感じて、Dino 206GTの開発がスタートする。 また、1966年春に創業者バッティスタ・ピニンファリーナを喪ったPininfarinaは、新たな舵取りを息子セルジオと娘婿レンツォ・カルリに託していた。当時の自動車デザインはウェッジシェイプを基調とする“未来的な嗜好”に移行し始め、前衛的なデザインと、保守的なデザインの、二つの方向性が入り雑じり、社内でも激しく議論されていたとの話も耳にする。 ▲ レンツォ・カルリ(左)とセルジオ・ピニンファリーナ(右)。 1970年代を目前に、人類は宇宙へ、月へと足を延ばし、夢に思い描いていた未来が現実になろうとしていた。輝かしい未来への期待感はファッションや芸術、映画、音楽はもとより、カーデザインにも表れていた。 Bertoneは1970年にマルチェロ・ガンディーニによるLancia Storato’s発表し、クルマは成層圏を飛び出す日も近いのではないかと、期待感を高めた。対するPininfarinaは、パオロ・マルティンによるFerrari Moduroを1971年に発表し、人類の移動手段たるクルマは、もはや宇宙を駆け抜けるモジュールになると未来を想像させた。 ▲ Lancia Strato’s Zero。マルチェロ・ガンディーニの代表作。数年前、まだ悪夢のような破綻劇が起こるなど知る由もなかったBertoneを訪問した際、広報からStrato’s Zeroはモックアップも含め数台が製作されたと伺った。うち何台かは、あの“キング・オブ・ポップ”からの注文だったという。 ▲ Ferrari Moduro。大阪万博に展示され、以降も白いボディカラーが定着しているが、しかし、最初期はパールライトブルーだった。これが残された当時の貴重な写真だとパオロ・マルティンは指摘する。 そんな変革期にPininfarinaは“どのような道”を選択すべきなのか。 様々な思惑も重なるなかで、時代を見据えた新しいデザインとエンジニアリングを提案することが急務となっていたのであろう。 時系列は前後したが、P6の発表に先立つ1968年のジュネーブ・ショーでPininfarinaはFerrari P5なるコンセプトカーを発表している。実は、後のP6と“連作”と言われている一台だ。 ▲ Ferrari P5 このP5は、Ferrari 330P4のベアシャーシを流用し、そこにレーシングプロトタイプの面影を残しつつもエアロダイナミクスに裏付けされた美しくも未来的なボディを纏わせ、ガルウィング・ドアや、ル・マン(サルト・サーキット)の名所“ユノディエール”の直線を見渡せるとも言われた大胆なヘッドライトなど、実験的な提案を盛り込んだ意欲作であった。 そしてP5という車名は、ベアシャーシに由来するP4の次点。つまり、“レーシングプロトタイプの未来像”として“5”という数字が与えられたのである。 ▲ シャーシの提供元になったFerrari 330P4。1967年のデイトナ24時間レースで“1-2-3”フィニッシュを果たしたことが、翌年発表した365GTB/4のサブネーム“Daytona”に繋がったことはあまりにも有名。 しかし、今回の主役であるP6をもう一度思い出してほしい。その“P”で始まる車名を除けば、この二台が“連作”として成立するほどの関連性は乏しいようにも思える。 P6を紐解くには、P5という存在も再考してみる必要もありそうだ。 ▲ Ferrari P6 果たして、P5とP6を繋ぐ“鍵”は何なのだろうか。どのような使命が課せられていたのか。その理由を後編で明らかにしてみたい。 つづく...。
幻に終わった“Cagiva Ferrari F4”は、Ferrariがフォーミュラー1で培った技術をモーターサイクルの世界に落とし込もうとした、意欲的な企画であったが、1990年代にCagivaが仕掛けたMV Agustaのブランド復活劇によって、それは“MV Agusta F4”に受け継がれ、現実のものとなった。 ▲ Cagiva Ferrari F4 設計を指揮したのは鬼才マッシモ・タンブリーニ(Bimotaの設立者の一人)だったが、F4エンジンの特徴とも言うべき“ラジアルバルブ”こそ、当時、ピエロ・ラルディ・フェラーリ(現Ferrari S.p.A.副会長)が率いたFerrari Engineeringから技術提供されたもので、それこそが“Cagiva Ferrari”であり、今日の“F4 = Ferrari 4”と呼ばれる所以である。 ▲ MV Agusta F4のラジアルバルブ。吸排気面積が拡大できるというメリットがある。
さて、8月下旬。何度かのティーザーキャンペーンを経て、MV Agustaは“F4Z”を名乗るF4を発表した。 その最大のトピックスは、車名末尾の“Z”が意味する“ZAGATO”とのコラボレーションで、ボディカウルをミラノのデザイン・オフィスが手掛けることになった。 ▲ MV Agusta F4Z。9月4日にフランスで開催された“シャンティイ・アート&エレガンス”で正式披露された。シルバーとメタリックレッドを基調としたボディカラーはMV Agustaのセオリーに則ったもの。 ▲ 真新しいプロジェクター式のヘッドライトは、イタリア式に言えば“モノファーロ(一灯)”だろうか。 ▲ 正式な名称は“F4 ZAGATO”ではなく“F4Z”である。 プレスリリースによれば日本人コレクターのオーダーによる“one of one”とのことだが、間もなく、創業から100年を迎えるZAGATOにとって、モーターサイクルのデザインを手掛けるのは初めてであろう。 航空機製造を学んだウーゴ・ザガートが、その軽量化技術を自動車分野へ提供することを目的にミラノで創業したのがCarrozzeria Zagatoだった。特に、同じくミラノに本拠地を構えていたAlfa Romeoとの共演は、今も輝かしい歴史が語り継がれている。 ▲ Carrozzeria Zagatoがボディを手掛けたAlfa Romeo 6c1750GSは、Alfa Romeoに数多くの栄冠を齎した。そのワークスチームを率いたのはエンツォ・フェラーリである。 現在は、ボディ製造を手掛ける“カロッツェリア”という意味からは少し離れ、デザインやエンジニアリングを請け負う“デザイン・スタジオ”に内容をシフトしている。だが、その魅力は輝きを増し続けている。 ▲ 今年のヴィラデステで発表されたAston Martin Vanquish ZAGATO。現在のZAGATOはウーゴ・ザガートの孫であるアンドレア・ザガート社長を筆頭に、長年に亘ってチーフ・デザイナーを務める原田則彦氏、そして、このVanquish ZAGATOを手掛けたステファン シュヴァルツ氏がZAGATOを支えている。
日本がそうであるように、イタリアの自動車産業とオートバイ産業も、お互いに関係の深い存在である。 Isettaを生み出したISOはオートバイと冷蔵庫で成功を収めた後、FerrariやLamborghiniのような高級グランツーリスモの製造に転身し、名を遺した。 ▲ BMWへIsettaの製造権を譲渡したISOが最初に送り出した高級グランツーリスモが、このISO Rivolta GTだった。スクーター製造から小型自動車の生産を企画したメーカーは少なくなかったが、ISOのような存在は異例と言える。デザインはBertoneに在籍していたジョルジェット・ジウジアーロが手掛けた。 DucatiはLamborghiniと同じボローニャで創業し、2012年には同じAudi傘下に収まった。Vespaで有名なPiaggioもFIATの創業一族アニエッリ家に買収され、実質的な傘下となっていた。航空機製造でも知られている。 バイクとクルマ、この二つの分野が交差し、互いに影響を与え合う存在となることは世界的にも、歴史的にも、珍しいことではない。 しかしながら、MV Agusta F4とZAGATOの“結婚”は大いなるロマンが交差する瞬間と言えるのではないだろうか。 そして最後に、この文書を書いていて非常に残念なのは、MV Agusta F4Zが “one of one”という唯一無二の存在であるということ。 だがそれは、誰の手にも届かない存在であるからこそ、より一層、輝きを放っているように感じられるのだと、自分を納得させたいと思う...。
1973年。映画『燃えよドラゴン』は空前の大ヒットとなったが、公開直前の7月にブルー・スリーが急死してしまったことで、これが遺作となってしまう。 そんな本作の“顔”とも言うべきポスターを手掛けたのは、グラフィックデザイナーのボブ・ピークだった。 ▲ ボブ・ピークによる映画『燃えよドラゴン(原題:Enter the Dragon)』のポスター。 ピークは『マイフェアレディ(1964年)』や『007/私を愛したスパイ(1977年)』、『スターレック(1979年)』といった、映画ファンなら一度は目にしたことのあるポスターを数多く手がけた人物である。また、フェラリスティとしても知られていた。 ▲ ボブ・ピークと彼の愛車であったFerrari 275GTB。フェンダーには“N.A.R.T.”らしきフェラーリ・ロゴが張られている。だとすれば、この275GTBはキネッティから購入したものだろうか?。 さて、話は『燃えよドラゴン』から遡ること6年前。1967年頃。 アドポスターの第一線で活躍していたボブ・ピークにフェラーリをデザインしてみないかと、ある人物が提案を持ちかけた。彼の名はココ・キネッティ。 アメリカにおけるフェラーリの仕掛け人として、あのノース・アメリカ・レーシング・チーム(通称、N.A.R.T.)を率いたルイジ・キネッティの子息である。 また、この頃はディーラー業としてもFerrari 275GTB/4の屋根を切り捨てた、Ferrari 275GTB/4 N.A.R.T. Spiderを提案し、高評価を得ていた。これは実際に十数台がデリバリーされ、うち一台はスティーブ・マックイーンにも納車されている。 ▲ キネッティが提案したFerrari 275GTB/4 N.A.R.T. Spider。製作はマラネッロのCarrozzeria Scagliettiに託されたが、あくまでも“正式”なフェラーリではなかった。写真はその一号車で、後に赤色に塗り替えられて映画『華麗なる賭け』に出演。スティーブ・マックイーンと共演を果たしたが、彼が購入したのは別の個体である。 ピークはココの提案を受け入れると、“夢のクルマ”の製作が始まった。 ドナーとして選ばれたのはプロトタイプレーシングカー、Ferrari 275P(s/n.0812)。スクーデリア・フェラーリから払い下げられ、数年前からN.A.R.T.名義でレース活動を行っていたものの、当時としては既に世代遅れとなったマシンだった。 激戦に耐えたボディは破棄され、新しい使命を纏った姿へと、生まれ変わることになったのだ。 だが、そんな夢をカタチにするためには、ボディワークを担当するスペシャリストの存在も不可欠だった。そこでキネッティは、イタリアのカロッツェリア業界に精通する、ある人物に協力を求めた。 ▲ ボブ・ピークによる“夢のクルマ”のレンダリング。 巨匠、ジョヴァンニ・ミケロッティである。 キネッティは第二次大戦中にアメリカに亡命したイタリア人ということもあって、イタリアに強いパイプを持っていたし、フリーランスとしてトリノにスタジオを構えていたミケロッティならば適当な人物だと、確信したのであろう。 かくして、ボブ・ピークによるデザイン、ジョヴァンニ・ミケロッティ監修のフェラーリが製作されることになった。
1968年のニューヨーク・オートショー。 夢のクルマ、“Ferrari 275P Speciale Micherotti”は発表された。 レーシング・フェラーリという“育ちの良さ”を生かしつつ、モダンにトリミングされたデザインには、ガルウィング・ドアやポップアップ・ヘッドライト、フロントフェンダーと一体化されたサイドミラーなど、真新しい試みが数多く盛り込まれた。 そして、アメリカとイタリアという二つの哲学が融合した唯一無二のデザインは、多くの人々に好奇的な印象を与えたのではないだろうか。 ▲ 1968年に開催されたニューヨーク・オートショーに展示されたFerrari 275P Speciale Micherotti。 しかし、もうこのフェラーリはこの世に存在しない...。
それは21年後の1989年、イタリア・モデナ。 数多くのコンペティション・フェラーリの板金を手掛けた名工、フランコ・バケッリ率いるCarrozzeria Autosportに、あの275Pの姿はあった。 ピークとミケロッティがデザインしたボディは剥がされ、そのシャーシの上には、深紅に輝くワークス時代のボディが“復元”されたのである。 ▲ Carrozzeria Fantuzzi製のボディを纏うワークス時代のs/n.0812。そのボディ形状からFerrari 275P Fantuzzi Spiderと呼ばれている。写真は1964年のセブリング12時間でのもの。 なぜならば、このs/n.0812を持つ275Pはスクーデリア・フェラーリのワークス時代に、1963年のニュルブルクリンク1000kmと、1964年のセブリング12時間で優勝した経験を持つ“由緒ある個体”だったからである。 こんな話がある。「レーシングカーとして生まれた車は、レースで成績を残してこそ、本当の価値がある」と...。 ▲ 2010年にラグナセカで開催されたモンテレー・モータースポーツ・リユニオンに参加した際のs/n.0812。 現在も、s/n.0812はワークス時代のスタイルを守り、各地のイベントで活躍している。 ちなみに、1963年。ル・マンで車両火災に見舞われたs/n.0812は、修復される際、翌シーズンを見据えて、エンジンやボディのアップデートが施されている。現在、目にできるのはこのアップデート後の姿である。 二度の人生。いや、三度の人生を味わったこのクルマにとって、果たして価値のある“状態”とはどれなのだろうか。 その結論は、皆様に委ねたいと思う...。