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独特の目線でイタリア・フランスに関する出来事、物事を綴る人気コーナー
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文と写真 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA/Stellantis

アバルト・パルス

ステランティスは2022年3月、「アバルト・パルス(プルス)」をブラジル市場に投入することを発表した。アバルト・ブランド初のSUVであるとともに、ブラジルで初めてすべてを開発・生産するアバルト車となる。

アバルト・パルスは、ブラジル工場で2021年から製造されている「フィアット・パルス」をベースとしている。同国におけるアバルト・ブランド展開の第1弾となる。
スペックは明らかにされていないが、参考までに姉妹車フィアット・パルスのものを記せば、エンジンは4気筒1.3リッター自然吸気98HPと 3気筒1リッター・ターボ125HPの2種類で、国策として1970年代から推進されてきたエタノールにも対応。その場合、後者の出力は130HPとなる。変速機は5段MTもしくはCVTが用意されている。その最高級モデルが125,590レアル(約335万円)であるから、アバルト版は、それ以上の設定になると思われる。イタリアのメディアによると、アバルト・パルスのブラジルでの発売開始は2022年第4四半期が予定されている。

そこで今回はブラジルやアルゼンティンなど南米製フィアットについて語ろう。
メーカー資料によると、ステランティスの旧FCA系ラテンアメリカ・ユニットは、ブラジル、アルゼンティン、ベネズエラそしてチリでビジネスを展開し、年間生産台数は80万台に及ぶ。最も規模が大きいのは、ブラジルの都市べチンにある工場だ。1976年に「フィアット127」の現地版である「フィアット147」で操業を開始した同施設は、フィアット・ブランドにとって世界最大の生産拠点である。完成車だけでなく、エンジンも欧州に輸出している。

南米でフィアットは、メジャーなブランドである。2021年の年次報告書で市場シェアをみると、ブラジルでは首位の32%で、これは2位のフォルクスワーゲンの2倍以上だ。アルゼンティンでも29.1%を誇る。

その南米製フィアットの一部は、ブランド発祥の地イタリアでも輸入販売されてきた。

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「アバルト・パルス(プルス)」は、ブランド史上初のSUV。

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アバルト・ブランドのブラジル市場導入において、イメージリーダー役も担う。

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発売は2022年の第4四半期を予定。


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先に市場投入された 「フィアット・パルス」。


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ブラジル工場におけるフィアット「147」エタノール対応車のアセンブリー・ライン。1979年。

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ステランティスのブラジル・ベチン工場。


ウーノのバリエーションが次々と

具体的に、どのようなモデルがイタリアでも売られたのかについて見てゆこう。なお呼称は基本的に、南米各国におけるものではなく、イタリアおよび欧州でのものとする。

1980年代後半、フィアットは既存のバリエーションを補完すべく、南米専用モデルの一部を欧州に導入した。
1987年の「フィアット・ドゥーナ」は簡単にいうと、「ウーノ」にトランクを付加した3ボックス版であった。加えて「ドゥーナ・ウィークエンド」と名づけられたワゴン版も存在した。同モデルはウーノ同様ジョルジェット・ジウジアーロがデザインに関与しており、南米では「フィアット・エルバ・ウィークエンド」の名前で販売されていた。

なお、これらと本国製ウーノと比較して、外見上明らかな相違点は、エンジンを覆うフロントフードがフロントフェンダー、つまり側面まで回り込んでいたことであった。視覚的には若干違和感があったものの、整備性は向上したのは明らかだろう。

街角のユーザーを観察していた筆者の考えでは、市場におけるボディ形状の人気がハッチバックおよびワゴン一辺倒になる前夜、ドゥーナの3ボックス版は高齢者を中心に一定の需要があったと思われる。だが実際は、ウィークエンドともども、メーカーに大ヒットはもたらさなかった。そのため、1990年代に入ってまもなく、ドゥーナ・シリーズはカタログから落とされてしまう。

代わりにフィアットが考えたのは、このドゥーナを「インノチェンティ」ブランドに移すことだった。
背景を解説すると、フィアットは1990年、インノチェンティを「マセラーティ」とともにアレハンドロ・デ・トマゾから取得した。ただし、ブランドを象徴してきたベルトーネ・デザインの「ミニ」は、すでにモデル末期となっていた。フィアットの旧ユーゴスラヴィア工場から輸入する「コラール」が唯一の“最新”車種だった。
当時イノチェンティ販売店を経営していたイタリア人に筆者が聞いたところによると、本部からは同じく数年前にフィアット系となった「アルファ・ロメオ」販売店への転換を勧められたという。しかし、それには時間を要する。そうしたなかフィアットは1991年、ドゥーナ・ウィークエンドを「インノチェンティ・エルバ」と改称。ラインナップを拡充して、セールス・ネットワークを当座支えたのである。
さらに、それを補完するものとして、同じくブラジル工場製の「インノチェンティ・ミッレ」も投入した。こちらは3ドアで、フロントグリルや前述のフロントフードの切り欠きを除けば、本国版フィアット・ウーノと瓜二つであった。

ただし、フィアット・ブランドで南米製が絶えてしまったわけではなかった。1988年の2代目「フィアット・フィオリーノ」は引き続き販売された。こちらもウーノをベースとしたピックアップ・トラック&バンで、後者はイタリア郵便会社が大量に導入したことから、2000年代初頭の一時期、筆者が住むシエナで配達車といえばフィオリーノだった。

次にフィアットが南米工場製を導入したのは1996年の「パリオ」シリーズであった。初期型のデザインはトリノのI.DE.A.イスティトゥートによるもので、ブラジルをはじめ南米各地はもとより、インドやロシアなど世界各地の生産拠点で造られた。フィアット版ワールドカーであった。
筆者は、このモデルをよく記憶している。なぜならこの国に住み始めたのと同じ年だったからだ。イタリア市場には最初にワゴン版「パリオ・ウィークエンド」が投入され、その後パリオ3ドアが追加された。

実は南米では「パリオ」に、ノッチバック版の「シエナ」も存在したが、こちらはイタリアに輸入されなかった。ちなみに当時、筆者が住むシエナでは、地元で開かれる有名な競馬の名称が「パリオ」であることから、「歴史あるイベントの名称をクルマに使用するのはけしからん」と、市の団体がフィアットに対して抗議した。しかしフィアットは、まったく相手にせず販売を継続した。

このパリオ、イタリア国内製でないことによるネガティヴなイメージは、あまりユーザーの間で広まらなかった。そればかりか初代「パンダ」よりも近代的、かつ「プント」よりも格安ということで、一定の顧客を見出した。

またドゥーナ同様、パリオでも商用車版が市場投入された。ピックアップ・トラックである1999年の初代「ストラーダ」で、事実上フィオリーノ・ピックアップの後継車的位置づけだった。


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フィアット・ドゥーナは、ウーノの3ボックス版。テールランプの意匠は、ランチア・テーマを彷彿とさせる。


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インノチェンティ・エルバを、筆者がエルバ島で発見。2000年代初頭。


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フィアット・フィオリーノ。イタリア郵便の配達車。シエナのカンポ広場で2003年撮影。


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地元工業高校の“公用車”として用いられていたフィアット・フィオリーノ。


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フィアット・パリオ・ウィークエンド(ブラジル仕様)。

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フィアット・パリオ3ドア。シエナで2003年撮影。

意外な人気車

今日、ドゥーナやインノチェンティ・エルバは、古い排ガス対策基準のクルマほど負担増となる自動車税で不利であることから、さすがに路上で見る機会は減ってきた。
またパリオは、ワールドカーとして誕生したルノー・グループの「ダチア」に匹敵するほどの成功は収められなかった。

しかし今でも時折、路上で元気なパリオを見かける。今回最後の写真は、本稿執筆の直前、2022年4月に見つけたものである。

初代ストラーダは、郊外在住のユーザーの間で根強い人気がある。全長4.5メートル未満、全幅1.7メートル未満、というコンパクトなサイズのピックアップを現行車種で探すのはけっして容易ではないからだ。ブラジル生まれならではの、きわめて実質的かつスパルタンな性格も、本国版にない魅力なのである。筆者自身は、荷台を取り巻くプラスチック使いや、リアゲートにプレスされたFIATの斜体文字が今も好きだ。

ストラーダは本国における2020年の2代目移行をもって、イタリアに輸入されなくなってしまった。そればかりか今日フィアットのピックアップは、タイ工場製「三菱トライトン」をベースにした巨大な「フルバック」になってしまった。ストラーダ愛好者の「ちがう、ちがうってば」という声が聞こえてきそうだ。
ヨーロッパ最大級の中古車検索サイト「オートスカウト24」で20年落ち・走行30万キロメートル以上のストラーダが、5000ユーロ(約70万円)で頻繁に取引されているのは、今なお人気の証だ。

 

かくもイタリアにおいて南米工場製フィアットは、ユーザーの間に迎え入れられてきた。したがって、仮にアバルト・パルスが本土上陸しても、筆者はけっして驚かないのである。


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シエナの家具店でサービスカーとして活躍するフィアット・ストラーダ。

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2022年4月、シエナで発見したフィアット・パリオ3ドア。2000年までの初期型ゆえ、最も若くても車齢22年である。
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文と写真 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA

毎日のささやかな楽しみ

スマートフォン内の写真ファイルというのは、あっという間に増えてしまうものだ。筆者の場合、気がつけば、すぐに700枚近く溜まってしまう。女房に常々指導されるように、撮影当日ダウンロードして分類すれば良いのだが、それがなかなかできない。だから撮影月を見ると、1年以上前の写真が平気で常駐していたりする。かつて、イタリア人の知人が年末にクリスマスパーティーのフィルムを現像したら去年のクリスマス写真まで入っていて筆者は大笑いしたものだが、今や彼を馬鹿にできない。

前置きが長くなかったが、先日スマートフォンの中にたまっていた膨大な写真を整理した。そのなかに、筆者が発見するたび面白がって収めていた風景があるのに気づいた。「クルマのゾロ目」だ。要は同じ種類のモデルが並んで駐停車している風景である。
ただし、筆者は自身であるルールを決めて、以下は“反則”として撮影しなかった。
・販売店の敷地内、もしくは周辺
・営業車。たとえば郵便局の配達車や電話工事のクルマなど
・販売した店が同じクルマ。イタリアの場合、ナンバーフレームの周囲にディーラー名が記されているので即座に判別できる。すなわち自動車関係者による出張の可能性が高い

さっそく実際にご覧いただきながら、組み合わせが起こりうる頻度の少なさや、意味合いの深さを基準に、100点満点で採点してゆきたいと思う。

1 【フィアット500】

白のトーンが違う現行モデル初期型2台である。ただし、500は2021年のイタリア国内新車登録台数で、デビュー14年後にもかかわらず依然2位に君臨している。そうしたこともあり同様のシチュエーションは比較的発見しやすいため、せいぜい30点といったところである。

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フィアット500×2台。

2 【ランチア・イプシロン】
フィアット500の姉妹車である。こちらも2021年登録台数で3位にあるため、イタリアではけっして珍しいゾロ目ではない。したがって同じく30点。

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ランチア・イプシロン×2台。


3 【ランチア・ムーザ】
2021年9月にスーパー駐車場で撮影。ムーザは、まだイプシロンが3ドアのみだった時代、ミニMPVブームに乗って一定の顧客を獲得したが、同じ市場で健闘したメルセデス・ベンツAクラスの人気には及ばなかった。そのため早くも見かける頻度が減った存在である。さらに生産終了の2012年から早10年である。そうした背景を考えれば、2台揃う風景はそれなりに珍しいので65点といったところか。ちなみに、右側のクルマは砂埃で真っ白だが、逆にオーナーは門扉から未舗装路をえんえんと走ってゆく郊外の大邸宅在住、ということもありうる。

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イタリア版ミニMPVとして存在したランチア・ムーザ。


4 【MINI】
まったく同色、それも2台ともディーゼル仕様のONE Dである。にもかかわらず、よく見ると5ドアと3ドアだ。念のため例のナンバーフレームを確認したが、手前は地元ディーラー、もういっぽうはまったく異なる地方の販売店であったので、偶然の可能性が極めて高い。さらにMINIはイタリアで登録台数トップテンに入っていないので、ゾロ目希少性はさらに高くなる。そこで同じく65点としよう。

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2台のMINIは、よく見ると3ドアと5ドアだが、各オーナーは、隣のクルマを発見したとき、それなりに驚いただろう。


5 【初代メルセデス・ベンツAクラス】
イタリアでも大きな成功を収めた初代Aクラスだが、近年はさすがに目撃する機会が減ってきた。そうしたなかスーパーの駐車場で発見した風景である。さらによく見ると、右がノーマル仕様なのに対して、左は後から追加されたロング・ホイールベース版「L」だ。ということで75点。


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初代メルセデスAクラスのストレッチ版(左)とノーマル版。


2台から見えてみるもの

さらに「うんちく」を傾けさせていただこう。

6〜9 【二世代ご対面】
同名モデルで違う世代が並んだ場面である。写真6は2代目および現行フィアット・パンダの2台並びだが、ベストセラー車種で、それもこの国の人々が好むシルバーゆえ、せいぜい30点だ。
いっぼう、写真7はフィアット・プントによる2代目&3代目(グランデプント)の豪華3台揃いである。ただし、2代目は12年、3代目も13年にわたってカタログに載り続けたから、現存している頻度としては高い。さらに「ここまで来れば初代もいてほしかった」という欲も出るので60点としよう。
写真8は現行フィアット500と、いわゆるヌオーヴァ500という微笑ましい光景だ。だが後者が今もお年寄りの足として元気に走り回っているため、ときおり起こりうる取り合わせである。したがって70点。
いっぽう写真9は、直系ではないが、デビューを1955年に遡るフィアット600L(右)と、2012年に登場し今日もカタログに載る同500L(左)である。フロントグリルのモール、ヘッドライト&ポジショニング・ランプの配置など、アイデンティティが継承されていることがわかるショットだ。それにしても今日のクルマの大きいことよ。600Lはヌオーヴァ500よりも見かける頻度が格段に少ないから、85点に値する。

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パンダ2世代。左の2代目のリアワイパー・アームには、イタリアで結婚式参加者が付ける白いリボンが。


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2代目プントと、2台の「グランデプント」。


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一瞬のショットゆえ画質はお許しを。フィアット500親子。


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デビュー年に半世紀以上の開きがあるフィアット500Lと同600L。


10〜13 【いろいろ考えさせられてしまうペア】
写真10はDS3(左)と現行シトロエンC3(右) が偶然並んでいたところである。DS3は遠く2009年の発表で、すでに生産完了している。また近年DSオートモビルズは、シトロエンとより異なるデザインを与えて差別化を図っている。だが、同じ血筋−−実際、DS3は2代目シトロエンC3のプラットフォームを使用していた−−であることをいやがうえにも感じさせるショットということで50点。

続く写真11でフィアット500と並んでいるのは、2016年まで販売されていた2代目フォードKaだ。この2台は同一プラットフォームで、いずれもFCAのポーランドにあるティヒ工場製である。形状こそ異なるがテールランプやフロントフェンダーの位置、そして写真では見えないもののダッシュボードの各種操作類などは極めて似通っている。共通のワイヤーハーネスを使用していることを匂わせる。2台は「あら、久しぶりねえ」と会話を交わしているに違いない。フォードKaがイタリアで初代ほどヒットしなかったことから、この取り合わせは滅多に見かけないので85点である。

写真12は、あるスーパーマーケットの駐車場で2022年2月に撮影したひとこまである。(左から)フォルクスワーゲンのトゥーラン、先代ポロ、そしてゴルフⅦが揃った。車体色が同じなのは、この「ウラングレー」がイタリアにおいては追加料金なしでオーダーできる数少ない選択であることが影響している。ともあれ、あたかもラインナップ紹介広告のような光景なので70点。

 

写真13は2022年1月、生協の駐車場での光景だ。間隔こそ開いているがシルバーのプジョー206が2台並んでいる。生産終了から早10年でもユーザーが多いのは、その実用的なコンパクトさと、必要十分な機能によるものである。サードパーティー部品も豊富だ。ボディの肥大化、過剰な付加価値化そして高価格化が著しい近年の小型車に疑問を投げかける風景ということで90点を与えたい。

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DS3とシトロエンC3。最近でこそ先鋭化するDSのデザインだが、考えてみればシトロエンに限りなく近いところから始まった。

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同じプラットフォーム、同じ工場同士の2代目フォードKaとフィアット500。


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近年のVWが偶然3台並んでしまった。

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プジョー206の愛好者は、今も根強く存在する。

思わず泣けてきた光景

14 【スマート・フォーツー】
一見なにげない風景だが、これを見た途端、思わず泣けてきた。きっかけは、リアに付けられた「mhd」のバッジである。
2008年から約10年間、筆者はブランドのコミュニケーション誌に、ヨーロッパ各国のスマート・オーナーを訪問する記事を撮影・執筆していた。ただし、スマートの持ち主なら誰でも良いというわけではなかった。編集部のオーダーは、当時の現行モデルである2代目、それもアイドリング・ストップ機構が付いたmhd仕様のみOK、というものだった。
外からmhdを確認する手段は2つだった。前述のバッジか、センターコンソールにあるアイドリング・ストップ作動&解除用緑色ボタンである。そのため欧州各地の訪問地で、スマートの後ろ側にまわっては、mhdのバッジを確認した。そして車上荒らしと間違われないようにしながら、車内を覗き込んだ。
ところが実際探してみると、当時はまだ出始め、かつ同じスマートでもディーゼル仕様が脚光を浴びていた時代だった。想像していたほど簡単には見つからない。
mhd車を見つけたら、駐車中のワイパーに筆者の連絡先を記した紙を挟んだり、ときにはオーナーが戻ってくるまで待ち伏せまでしたことがあった。かばんの中には、自分が何者で、目的が何であるかを説明するための掲載誌をしのばせていたものだ。
誌面に“どんぴしゃ”のキャラクターを備えたスマート・オーナーなのにmhdでなかったり、そうかと思えばバッジの類が嫌いで、mhdをわざわざ剥がして乗っているオーナーもいた。
そのようなリサーチと取材を約10年にわたって続けた。だから、この写真の2台並びを発見したときは、「当時の苦労は何だったのか」という落胆と、「ああ、その後こんなに普及して良かった」という安堵が交錯したものだ。ということで筆者としては100点を与えたい。

 

過去2年間は、モーターショーをはじめとする各種イベントが中止や延期になったことから、出張の頻度が極端に減った。そのため今回の大半の写真は、筆者が住むシエナ市内で撮影したものである。それでも、身近なロケーションとシチュエーションで、こんなにも楽しめるとは。自動車好きは得である。

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スマート・フォーツー・カブリオとクローズドルーフのフォーツーだが、いずれもスタート&ストップを備えたmhd仕様。かつてひたすら捜索に苦労したモデルが2台並びとは。
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読者の皆さんにとって、行きつけのガソリンスタンドは、どのブランドだろうか?
イタリアの石油ブランドといえば、多くの人が「アジップ」を思い出すに違いない。1995年まで二十数年にわたり「フェラーリ」F1のスポンサーにもなっていた、炎を吐く犬マークの、あれだ。
そうした大手石油ブランドのガソリンスタンドが次第に姿を消し、代わりに新たな勢力が台頭しつつある、というのが今回のお話である。

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シエナ郊外、人口約130人の村アッバーディア・ア・イゾラにて。一帯に1軒のガソリンスタンド。

ローコスト系の台頭

日本ではガソリンスタンド(以下スタンド)の数が、2016年には31,467ヵ所だったのに対して、2020年には29,005ヵ所にまで減少している(出典:資源エネルギー庁)。
いっぽうイタリアでは、2013年(19,257ヵ所)まで同様に減少を続けていたが、翌2014年には21,300ヵ所に増加。以後はほぼ21,000軒ペースを維持している(出典:イタリア石油連盟)。つまり「底を打った」のである。
この現象に関する詳しい分析は見当たらないが、在住25年の筆者による観察をもとにすれば、2つの背景がある。

第1は、大型スーパーマーケットが併設し始めたセルフ式スタンドの台頭だ。自分で給油したあと、スタッフがいる料金所までクルマを進め、車内に乗ったまま現金またはカードで支払いを済ませる。
人的コストが少ないことから、ガソリン1リットルあたりの料金が日本円換算で14円以上安い(2022年1月現在)。そのため、各地でこうしたスーパー併設スタンドが次々とオープンしている。

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スーパーマーケット「カールフール」に併設されたセルフ式ガソリンスタンド。トリノ郊外で。





第2は、大手系ではない石油販売会社の躍進である。従来見たことがないブランドが、過去数年来イタリア各地で見られるようになった。その多くは、もともと大手系のスタンドを数軒手掛けていた経営者が、みずからのブランドで展開を開始したものだ。

こちらもさまざまな間接経費削減による低価格が武器だ。大手系よりも円にして1リットルあたり10円前後安いのが常である。

そうしたスーパー系セルフスタンドや、ローコスト系スタンドにも短所はある。メンテナンスができるスペースが狭い、もしくは皆無なことだ。オイル交換はおろか、タイヤ空気圧用コンプレッサーを備えていないスタンドもある。
それでもガソリン・軽油価格高騰を背景に、そうしたローコスト系スタンドの多くには、給油を待つ車列ができるようになった。参考までに2022年1月12日 現在、筆者が住むシエナで最も1リットルあたり価格が高いスタンドは、ガソリン1.99ユーロ(約261円)、軽油1.85ユーロ(約243円。いずれも非セルフ)に達している。

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中部トスカーナとウンブリア両州に展開するブランド「アクイラ」。目下スタンド数は53。


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こちらも新興ブランドの「カネストレッリ」。2022年1月現在、ネットワークはシエナ県内2カ所にとどまる。

景品いらない!

いっぽうで従来の大手ブランドは苦戦を強いられていた。
決定的原因は上述のように、価格優位性がないことである。そうしたなか「シェル」は2014年、国内830のスタンド網をクウェート系の「Q8」に譲渡するかたちでイタリア国内市場から撤退した。

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廃業してしまった「IP」ブランドのスタンド。奥にはローカル系新興ブランド「ピッチーニ」が。イタリアの給油所事情を端的に示す風景である。


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走行中、助手席からの撮影ゆえ手振れはお許しを。「Q8」の廃スタンド。ピサ県ヴォルテッラで。解体用の簡易トイレがスタンバイしている。


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廃墟ツアーは続く。「アピ」という全国チェーン系スタンドがあった場所。かつてモダンだったであろう建物が残る。シエナで。


加えて「景品で顧客を釣れなくなった」こともあった。少し前まで大手系スタンドというと、ポイントによる景品交換制度が盛んだった。コスト・コンシャスなローコスト系ではできない作戦だった。
イタリア人ドライバーの多くは、そうしたポイントを懸命に集めていたものだ。最も鮮烈に記憶に残るのは、2001年の「ピニンファリーナ・デザインのマウンテンバイク」だった。

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エッソのイタリア法人が2001年、ポイントの景品として展開した「ピニンファリーナのマウンテンバイク」。2007年撮影。

もちろん筆者も、それなりにそそられた。だが、スタンドの中でもとくに価格が高かったエッソのキャンペーン、かつ通勤にクルマを使う人のようにポイントが多く貯まらないため、途中で戦線離脱した。

代わりに、より少ないポイントでもらえるトロリーバックを手に入れた。ところが空港に行ってみると、同様にもらったのだろう、同じバッグを持っている搭乗客がワンサといて、複雑な気持ちになった。
ピニンファリーナのマウンテンバイクも、やがて町中のあちこちで見かけるようになり、ときにはボロボロになって捨てられている個体も発見した。
こうした景品のコモディティ化による満足度低下は、「ちょっと1リットルあたり価格が高くても」という顧客のポイント収集意欲をおおいに低下させたと考えられる。そうしたなか、ドライバーのマインドは「数カ月後にもらえる景品よりも、今日の燃料を少しでも安く」にシフトしていったのである。

イメージの刷新でも大手ブランドは苦労が窺える。シェルから給油所を継承したQ8は、一部既存店をセルフ式に転換している。ただし、従来の大手系でもとくに価格が高かったイメージを払拭するには時間を要しそうだ。

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Q8はセルフ式の導入を進めている。


冒頭のアジップはといえば2009年、マークはそのままに、親会社の名称と同じ「エニ(Eni)」に転換することでイメージ刷新を試みた。しかし13年が経過した今日でも各地にアジップの看板が残る。このあたりがイタリアのゆるいところで面白い。
同時に、たとえスタンドの看板がエニに変わっても、大半の人はアジップと呼び続けている。エニ/アジップは今日でもイタリア最多の4300スタンドを有するが、場合によっては長年親しまれたアジップに戻されることもあり得るのでは、と筆者はみる。

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シエナで。このスタンドは少し前、アジップからエニに看板を掛け替えた。ただし、地元の人には、いまだアジップと呼ばないとわからない。2022年1月撮影。


ローコストでも欠かせないもの

 

ただし、ローコスト系も安泰ではない。大手系だった地元スタンドの経営者による、ローコスト系への鞍替えが相次いでいるためだ。筆者が住むシエナの街道沿いにある店も、2021年にアジップからローコストの「アクイラ」に切り替わった。店主の老夫婦は「お客さんがとても増えたよ」と、ほくほく顔だ。彼らのところには、アジップ時代の馴染み客がやってくるのだから、これは強い。先に営んでいたローコスト系スタンドにとっては脅威だ。

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アジップからアクイラに切り替え中のスタンド。2020年7月撮影。

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こちらもアジップからの脱退組だが、まだ新しい看板が届かないうちに営業中。カステッリーナ・イン・キャンティで2021年12月。




最後にもうひとつ。ローコスト系が人気を博した当初、スタッフたちは不要なサービスを省略するばかりか、口数まで減らして淡々と給油をこなしていた。
しかし気がつけば、人気があるのはやはり「愛想が良いスタッフがいるスタンド」「会話があるスタンド」である。
筆者が、あるローコスト店員と知り合ったきっかけは、いわゆる「10円パンチ」を自分のクルマに喰らったときだった。スタンドの片隅で必死にコンパウンドをかけていた筆者に、彼は「悔しいよなあ」と同情の声をかけてきた。以来、筆者の日本名まで覚えていて給油に行くたび「よう、アキーオ、元気か?」と声をかけてくるようになった。ここ数年は、メッセンジャーアプリで新年の挨拶も交換するようになっている。
彼の店は、いつも道路まで溢れんばかりにクルマの列ができている。
イタリア人が好む「人懐っこさ」は、たとえローコストでもけっして欠かせない要素なのだ。

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かつてよく見られた路肩のスタンドも、近年は急速にフェードアウトしつつある。ここの給油機も使わなくなって久しいようだ。カーニバルの日、ヴィアレッジョにて。
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文 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA
写真 Akio Lorenzo OYA、Mari OYA、Stellantis

間もなく終わろうとしている2021年、振り返れば「ポルシェ・ボクスター」の25周年、「ランボルギーニ・ムルシエラゴ」の20周年、そして「ブガッティEB110」の30周年が多くのメディアを飾った。フォルクスワーゲン・グループの強力なコミュニケーション力が背景にあるのは、いうまでもない。
いっぽう、イタリア人の路上からも消えつつあるものの、筆者が今年の“歳男”ならぬ“歳車”として記憶にとどめておきたい1台がある。誕生50周年を迎えた「フィアット127」だ。

早世の天才によるマスターピース

127をデザインしたのはピオ・マンズー。イタリアを代表する現代彫刻家ジャコモ・マンズーの長男として1939年に生まれた彼は、バウハウスの流れを汲むドイツのウルム造形大学に学んだ。
卒業後、彼はプロダクトデザイナーとして、フィアットのノベルティー&グッズを数々手掛ける。父ジャコモが、フィアット創業家3代目で美術にも深い造詣があったジョヴァンニ・アニェッリと交友関係にあったことがきっかけだった。
マンズーの才能は、フィアットの自動車開発陣からも注目されるようになった。ただし、本人の意思が尊重され、社員ではなくコンサルタントという形で参画することになった。
そして1968年のトリノ自動車ショーで、マンズーとフィアット・デザインセンターは「シティタクシー」を公開する。乗用車の流用であった従来型タクシーのあり方を根底から覆すものだった。

続いて彼が手掛けたのが、フィアット127だった。
事実上の先代でリアエンジンだったフィアット「850」と異なり、127には名設計者ダンテ・ジャコーザによる前輪駆動パワートレインが採用されることになった。
マンズーが模索したのは、シンプル、多用途、かつ量産にも適したデザインだった。彼が学生時代から追求していた、人々が日々用いる自動車の姿を投影したものだった。初期型における不要なモール類の徹底的な排除も、彼の思想を反映していた。

残念なことにマンズーは1969年、最終プレゼンテーションのためミラノの自宅からトリノに向かう途上、交通事故で僅か30年の生涯を閉じる。
しかし、1971年3月にデビューした127は、大人5人が無理なく乗れる室内、350リッターの広いラゲッジルーム容量などが高く評価された。それを反映するように、1971年の欧州カー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。

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1971年フィアット127。デザイナー、ピオ・マンズーを代表する仕事である。


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フィアット創業家であるアニェッリ家が開発したスキーリゾート、セストリエレを背景に。

翌1972年にはテールゲートを備えた3ドア版が追加され、さらに機能性が向上した。
1977年にはシリーズ2に発展し、翌1978年には70hpエンジンを搭載した「127スポルト」が追加された。そして1981年には再びフェイスリフトが行われ、シリーズ3に発展する。
1983年に後継車となる「ウーノ」が登場したあとも、127は生産が続けられた。その長いライフスパンの間には、スペインやアルゼンティンでも造られた。1987年にカタログから消えるまで生産された127は520万台以上に達する。

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走行中の助手席から撮影したので画質はお許しを。2019年夏、エルバ島ですれ違った127シリーズ2。


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シリーズ3のフロントマスク。このクルマについては、のちほど。


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最終型は、このようなフェイスだった。シチリア島トラパニにて2003年撮影。


30年モノ発見

筆者がイタリアに住み始めた1996年は、127の生産終了から9年目ということになる。そのためまだ路上でたびたび127を見かけた。とくにクルマの使用年数が長い南部イタリアに行くと、姉妹車であるスペイン製も含め、さらに高頻度で目撃したものである。

筆者の知人で現役時代にフィアットの地元販売店に勤務していたおじさんは、定年退職後も127を大切に乗っていた。
ところが、2000年前後になると町中の127は急激に減少してしまった。イタリア政府による、環境対策車への買い替え奨励金政策のためであった。とくに排ガス対策用の触媒未装着車を廃車にすることが目的とされた。
実際のところ、おじさんの127も、免許を取得したばかりの娘のためのフィアット「チンクエチェント(1991-1998)」を購入するため、ドナドナされていった。

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サルデーニャ島にて。2003年。


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シエナ大学の裏通りで。2007年。

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気負ったデザイン的主張は無いものの、見るからに使いやすそうなクルマであった。2007年。


いっぽう2021年初夏のことである。行きつけの給油所にフィアット127が佇んでいるのを発見した。
シリーズ3の「900」というモデルである。内外に多用されたプラスチック部品は、フィアット・リトモなどにみられる当時のトレンドを反映しアップデートされたものであることは明らかだ。

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シエナのガソリンスタンドに佇んでいた127シリーズ3。2021年初夏。


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ウィンドーの角度と曲率が時代を感じさせる。フィアット純正クーラント液「パラフルー」を勧めるステッカーが貼られている。

しかし、広大な室内空間とラゲッジスペースは、マンズーが初期型で思い描いた理想の小型車像を継承している。
オーナーがいたので声をかけてみた。ジュゼッペという名の彼も127のスペース・ユーティリティーは、今日のどのクルマにも代えがたいという。
ボディは屋外保管ということもあり、窓回りなどに腐食がみられるが、機構部分は「僅かな工具で、大抵の修理が済んでしまうんだ」と絶賛する。
ボディの造りはそれなりだが、エンジンは適切な整備を欠かさなければ、ひたすら元気に走り続ける。まさにちょっと古いフィアットを地で行っている。

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127シリーズ3のダッシュボードは、2代目ホンダ・シビックなどに見られた“絶壁型”。グローブボックスは潔く省略されている。







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スピードメーターの右には、各ギアにおける推奨速度が記されているが、903cc仕様と1050cc仕様兼用だ。

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車格以上に座り心地が良さそうなリアシート。

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今日見てもモダンな並行四辺形ロゴのバッジ。

今回ジュゼッペ氏本人は恥ずかしがって写真には収まってくれなかった。だが、普段の仕事を聞けば、日本でいうところのJAFロードサービス的仕事を隣町で請け負っている人だった。
自動車のプロが30年近く手放さないところから、世界の2ボックス小型車の範となった127というクルマの不朽ともいえる完成度を改めて感じた。
偶然、フィアット「500」が隣にやってきた。
お互いのオーナーが併設のバールでエスプレッソを傾けている間、
127「お前、わしより若いのに、後席は意外にタイトじゃないか」
500「うるさいわねえ。おじいちゃん」
127「お互い、ダンテ・ジャコーザ先生が与えてくださった不等長ドライブシャフト同士だ、仲良くしようじゃないか」
500「……」
などという会話をしているのではないかと、想像してしまった筆者である。

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当時の販売店のステッカー。

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ラゲッジルーム。収まっているのは、その日オーナーがスタンドで買い求めた潤滑油である。










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隣のフィアット500と、どのような会話を交わしているのだろうか。
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文 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA
写真 AkioLorenzo OYA/Mari OYA/NH TorinoLingotto Congress /DoubleTree by Hilton Turin Lingotto/Hotel Maranello Village

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ホテル「マラネッロ・ヴィレッジ」の客室一例。2002年のF1マシンとミハエル・シューマッハのサインが。

イタリアにおける自動車産業の中心地を挙げるなら第一がトリノ、第二がモデナとその近郊マラネッロである。前者がフィアットを中心とするポピュラーカーの都であるのに対し、後者はハイパフォーマンスカー&エンジンの里といえる。筆者の勝手な定義では、トリノは愛知県豊田市、モデナおよびマラネッロは静岡県浜松市周辺である。
今回はその2都市で、クルマ好きなら必ず泊まってほしい4つ星ホテルを3軒紹介しよう。

今夜は「工場」に宿をとる

まずは“イタリアのデトロイト”と称されるトリノ。そのなかでリンゴットはフィアットによって栄えた街区である。中央駅であるポルタ・ヌオーヴァ駅から地下鉄で南に6駅めだ。
そこに建つ旧フィアット・リンゴット工場は、1916年にジャコモ・マッテ=トゥルッコによって設計された鉄筋コンクリート5階建ての建築物である。屋上には総延長約1kmのバンク付きテストコースを擁する。フィアットはここで1923年の操業開始以来、大衆車「トポリーノ」「500」など80車種を生産し、隣接施設では航空機も製造した。
1982年、工場は閉鎖される。最後の車種は「ランチア・デルタ」だった。
ただしフィアットは、ヨーロッパ近代産業史に残るこのビルを解体せず、イタリアを代表する建築家レンツォ・ピアノに大規模改装を託した。その結果、ショッピングモール、映画館、オフィス、そしてコンサートホールなどを包括した複合施設に生まれかわかった。

このフィアットゆかりの施設館内には、嬉しいことに2つのホテルが設けられている。
かつては2軒とも「ル・メリディアン」系だったが、現在はそれぞれが異なるホテルグループのものになっている。

ひとつは「NHトリノ・リンゴット・コングレス」である。
レセプション奥のレストランは、到着後の食前酒にもふさわしい。「Torpedo」の店名どおり、ワインレッドのフィアット製戦前型トルペード(オープンカーの一種)が迎えてくれる。
部屋に一歩入った途端目に入る天井の高さは、そこが工場であったことを物語っている。
部屋の向きは2つだ。旧フィアット本社棟――今日ではフィアット創業家による投資会社が使用しているーー側の部屋と、かつて毎日新車が運び出された鉄道駅側である。どちらもイタリア自動車史に思いを馳せるには、とっておきのロケーションといえる。

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トリノのフィアット旧リンゴット工場と著者・大矢アキオ。2021年7月撮影。

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旧フィアット工場棟は今日、複合商業施設&オフィスとして使われている。「NHトリノ・リンゴット・コングレス」もこの中にある。

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その客室内(ル・メリディアン・リンゴット時代に撮影)。

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隣接して残る旧フィアット本社棟。

もう1軒は、その母屋とT字型に交わる「ダブルツリー byヒルトン トゥーリン・リンゴット」である。こちらはル・メリディアン時代に「アート&テック」というサブネームが付いていたとおり、館内がよりモダンなデザインで仕上げられている。各フロアを貫通した巨大な吹き抜けにも目を見張る。
廊下の壁や室内には、レンツォ・ピアノによる構想図や詳しい設計図が展開されている。建築・デザインファンがしびれる演出である。

いずれのホテルも、トリノの名所・自動車博物館(MAUTO)まで徒歩約10分で行けるのがこれまた嬉しい。

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「ダブルツリー byヒルトン トゥーリン・リンゴット」


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吹き抜け。部屋からレストランに向かうたび、気分が高揚する。


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スイート・ルーム。室内にもレンツォ・ピアノが手掛けた図面が掲げられている。

NH Torino Lingotto Congress
Via Nizza, 262 10125 Torino ITALIA

https://www.nh-hotels.com/hotel/nh-torino-lingotto-congress

DoubleTree by Hilton Turin Lingotto
Via Giacomo Mattè Trucco, 1, 10126 Torino TO
 

フェラーリづくし、そしてもうひとつの喜び

次はフェラーリ本社工場があるマラネッロにご案内しよう。
この町は、オフィシャルのフェラーリ・ストアだけでなく、周辺には大小の跳ね馬グッズを扱うショップが連なり、さながら門前町の様相を呈している。

ただし、ホテルはフェラーリ本社から4km離れたポッツァ・ディ・マラネッロ地区にある「マラネッロ・ヴィレッジ」がお薦めだ。
宿泊棟は4つに分かれていて「SUZUKA」「LE MANS」「MONZA」そして「DAYTONA」とフェラーリが活躍した舞台の名称がついている。
部屋の壁はモデナ・イエローもしくはマラネッロ・レッドで彩られ、往年のフェラーリの勇姿が描かれたポスターが掲げられている。
リストランテは「パドック」「ピットレーン」、よりカジュアルに飲食ができるバールは「ストップ&ゴー」と、こちらも洒落たネーミングだ。ついでにいうとジムの名前は「ボディ・チューニング」である。
オフィシャルのフェラーリ・ストアも、小さな面積ながら併設されている。
廊下のカーペットの縁には、チェッカーフラッグとともに歴代モデルが記されている。ここを通るたび、自分の発進加速を試してみたくなるのは筆者だけではなかろう。
「フェラーリ458スパイダーの10分間ドライビング体験付き」といったユニークな宿泊プランも提供されている。

ここまで“フェラーリ度”が高いのには理由がある。施設はもともと2006年11月にフェラーリ社の社員および関係者の居住・滞在施設として開設されたものだからである。

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ホテル「マラネッロ・ヴィレッジ」

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たとえばレセプションでSUZUKA棟の◯号室と告げられたら、この建物に向かう。

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思わずダッシュしたくなる廊下のカーペット。

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いきなり「フェラーリ575M マラネッロ」のダッシュボードが。


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もともとは関係者用の居住・滞在施設として計画された。

Hotel Maranello Village
Viale Terra delle Rosse, 12  41053 Maranello (MO) ITALIA


今回紹介したホテルに初めて泊まったときの筆者は、クルマ度数の高さに、つい館内や施設内をふらついてしまい、寝床につくのが遅くなってしまったものだ。

ただし、自動車との近さを感じるのは、しつらいだけではない。
リンゴットの場合、同じ建物内には、ダンテ・ジャコーザ、セルジオ・ピニンファリーナをはじめ自動車界の名士を数々輩出した「トリノ工科大学」があり、学生の姿が絶えない。
モデナの宿でもたびたび若者たちと朝食の席で顔を合わせる。彼らの多くは、フェラーリが長年実施している研修プログラムを勝ち取った参加者たちだ。

デザイナーやエンジニアの卵たちの生き生きした姿や熱いクルマ談義に接するたび、イタリア自動車産業は、まだまだ明るいことを確信する。
“自動車系ホテル”には、こうした喜びもあるのだ。

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大矢アキオ ロレンツォAkio Lorenzo OYA在イタリアジャーナリスト/コラムニスト/自動車史家。音大でヴァイオリンを専攻。日本の大学院で比較芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。自動車誌...
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