トリノは約30年ぶりの大雪だった。そんな日に水道が出なくなった。凍結である。朝起きてそれに気づいたときに、すぐさまその日が日曜日であることに思い当った。最悪だ。日曜日にイタリアでこの事態に対応してくれるところなんて思いつきもしない。すくなくとも今日一日はこのままの状態で我慢するしかない。起きて欲しくないことというのは、そういう都合の悪い日にきっちり起こるものだ。クルマはお盆休みの期間中にぶつけるものだし、子供の急病は大みそかにやって来る。知り合いのベッペさんの家に連絡してみる。大袈裟に同情されたけど、やはり今日一日はどうしようもないという。明日、朝一番でフランコに行ってもらうから。ベッペさんの奥さんのその言葉を聞いてちょっとホッとして電話を切った。
フランコさんはFIATのミラフィオーリ工場で働いている。それなのに朝一番で我が家兼イタ雑事務所にやって来られるのには理由がある。FIATが現在Cassaintegrazione、いわゆるレイオフにより操業調整を実施しているからだ。フランコさんは1月、わずか6日間しか出勤できなかったという。当然給与も満額支給されない。そもそも45歳になるフランコさんの給与は月1000ユーロに満たないのだ。1ヶ月きっちり働いても日本円で10万円程度のその給与が、工場の操業調整によって約6割程度に減額されてしまうらしい。だからヤミでアルバイトをする。フランコさんは知り合いの家の補修や、今回の我が家のような緊急事態に駆け付けては生活の糧を補填している。
僕がベッペさんの紹介でフランコさんと知り合ったのは、イタ雑の事務所をトリノのチェントロから現在のMoncalieriに移した時だ。2010年の1月の終わりだった。スケルトン状態で引き渡される部屋を住める状態にするまでの一切をフランコさんにやってもらった。壁や天井の塗装、キッチン設備、照明器具、そしてブラインドの設置などもろもろの作業を、すべてフランコさんが格安で引き受けてくれた。当時MiToの生産ラインに就いていた彼は、その時もやはり操業調整でアルバイト生活を余儀なくされていた。4年前に奥さんを脳腫瘍で亡くし、残された7歳の娘との二人暮らしをやりくりするために、周囲に声をかけてはそういう種々の仕事を回してもらっていた。フランコは運がないのよ。ベッペさんの奥さんはよくそう言っては、ため息と一緒にタバコの煙りをダイニングテーブルの下に向かってフーッとやっていた。
そうだよね、運というのは確かにある。自分の意志や力ではどうにもならないことというのが確かにあって、それはもしかしたら人生で遭遇することの大半なのかもしれない。貧しい家庭で育ち、教育を受ける機会にも恵まれず16歳で電気工見習になり、その後職業をいくつか替えて、ようやく家庭を持ち子供も生まれた。それなのに……。そう、これはイタリアじゃ掃いて捨てるほどある物語だ。物語の主人公はみな明日のためではなく、今日その時のために生きている。フランコさんの不運はそこに奥さんを亡くしたことで増幅される。働いて、働いて、働いて、家事の一切を担い、一人娘との間に生まれつつある微妙な距離の開きに頭を悩ませては、今日もどこかの家の壁に黙々とペンキを塗り込んでいく。
月曜日の朝、フランコさんは電動ドライバーと家庭用のドライヤー、それから太巻きの断熱テープを持ってやってきたらしい。「らしい」というのは、その朝、僕は早く出かけねばならず立ち会えなかったのだ。合鍵をベッペさんに預け、フランコさんはそれで我が家の鍵を開けて見事水道を復活させてくれた。しかし翌日、今度はボイラーが凍結して、お湯はもちろんのこと暖房までストップしてしまった。連日、零下15度以下に下がる気温に、トリノではいたるところで住宅設備がダウンしているらしかった。フランコさんは1時間ほどでボイラーも直し、これから娘を学校に迎えに行くんだよと言い置いて古いフィアット・プントで凍結した道をそろりそろりと走り去っていった。僕は寒さに怖じ気づきながらベランダから見送った。
フランコさん以外の誰もフランコさんにはなれない。あなたも僕もフランコさんの代わりをすることもできない。でも、たとえば、MiToを走らせる日本のどこかの路上で、そのクルマのどこかにフランコさんの痕跡があるんだと想像力を働かせてみることは、案外素敵なことかもしれない、とちょっぴり切なく僕は思ったりしている。イタリアからやって来るクルマもいろんなイタリアを背負ってる。
イタリア自動車雑貨店 太田一義