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独特の目線でイタリア・フランスに関する出来事、物事を綴る人気コーナー
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文 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA
写真 Akio Lorenzo OYA、IWC SCHAFFHAUSEN

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76年前のスピットファイア機で世界一周飛行を成し遂げたマット・ジョーンズ氏(左)とスティーブ=ボールトビー・ブルックス氏(右)。2019年12月5日、英国グッドウッドにて。(photo=IWC SCHAFFHAUSEN)

自動車イベント「フェスティバル・オブ・スピード」で有名なイングランド南部のグッドウッド飛行場。2019年12月5日、そこに1機の単発機が世界一周を果たして帰還した。

冒険に供されたのは、76年前の1943年に製造されたスピットファイアLF MKⅨ「シルバー・スピットファイア」。計20の国と地域・43,000kmを約4ヶ月かけて飛行した。スポンサーは「スピットファイア」シリーズを展開するスイスの高級時計ブランド「IWCシャフハウゼン」が務めた。

記録達成に長期間を要したのには背景がある。
ひとつは航続距離だ。本来戦闘機ゆえ、長距離用に設計されていない。そのため一回に飛べるのは僅か約750kmに過ぎない。
搭載されたロールス・ロイスV型12気筒エンジンも含め整備インターバルが短いこともその理由だ。そうしたことから経路を細かく分けて駒を進める必要があり、その数は74セクターに達した。

ルートは西廻りが採られた。グリーンランド、北米大陸、極東ロシアを経由。10月には日本に到達したものの台風の影響で、いわて花巻空港に20日間近く待機するという事態にも見舞われた。
しかしその後は順調に台湾、香港、東南アジア諸国、中東を経て、ヨーロッパへと戻ることができた。
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「シルバース・スピットファイア」ことスピットファイアLF MK Ⅸの最高飛行高度は43,000フィート(約13,100メートル)、最高速度は650km/h。

このチャレンジで筆者は2019年8月5日の離陸前、唯一の日本人ジャーナリストとして、他国メディアとともに出発式に立ち会った。
当日は元F1ドライバーで、IWCシャフハウゼンのアンバサダーであるデビッド・クルサードも激励に来場。その華やぐ会場で、交代で操縦桿を握ることになったパイロット2名から話を聞くことができた。

彼らの名は、スティーブ=ボールトビー・ブルックス氏とマット・ジョーンズ氏。いずれも英国人である。ブルックス氏は不動産ビジネスで財を成したが、ヘリコプターの操縦で空の世界に魅せられた。ジョーンズ氏はビジネス機運航に携わっていたが、約10年前グッドウッド飛行場脇にスピットファイア専門操縦スクールをブルックス氏と設立して現在に至っている。

彼らの飛行機に関する語りは、クルマも含め古いマシンに接する者への示唆に富んでいた。以下はその内容である。

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スティーブ=ボールトビー・ブルックス氏は、不動産ビジネスで活躍の傍ら、ヘリコプターで空の冒険を開始。やがてイギリス空軍が誇る歴史的名機の魅力に魅せられ、スピットファイア専門フライトスクールの校長となる。

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マット・ジョーンズ氏。ブルックス氏とともにスクールを通じて、これまで2千人以上にスピットファイア体験を提供してきた。

今回のミッションで注目すべき点は?

ジョーンズ
計画には2年半を要しました。機体入手時は単なるスピットファイア機でしたが、復元が完了した後は4万点のパーツの集合体として私の目に映ったものです。

ブルックス
注目していただきたいのは、シルバー・スピットファイアの高いレストア精度です。機体は8万個のリベットで結合されていますが、復元では1本1本外されてX線でチェックされました。ただし基本的には、製造された1943年の姿と同じです。歴史の一部と飛ぶといって良いでしょう。

ブルックス
この旅の真の主役は私たちではなくスピットファイア機です。 1936年、設計者R.J.ミッチェルは、すべての航空機の頂点を目指し、この機材を開発しました。過去に製造された中で最高の航空機であり、その地位は現在でも同様です。今回の目的は、この素晴らしいマシンをさまざま国で提示することです。ロールス・ロイス製マーリン・エンジンのサウンドを聞きながら、この体験を(人々に)共有してもらえるのです。

ジョーンズ
1943年から1944年にかけて12人がこの機材で飛行していますが、私たちは彼らと同じ感覚を味わえると確信しています。金属に刻まれた歴史は、金銭には代え難い感動をパイロットに与えてくれるのです。

飛行計画に関するエピソードを聞かせてください。

ジョーンズ
ヨーロッパ圏内を飛ぶときは膨大な量の情報と選択肢があります。いっぽうで、天候や滑走路の状態を伝達してくれる管制塔がない区間もあります。400-500マイルの飛行後、あと僅か20マイルに目的地があっても引き返しを迫られるときがあります。また、燃料は最新の旅客機とは大きく異なり、すぐ入手できません。そのため、燃料缶を各寄港地にあらかじめ発送しておく必要がありました。

今回の冒険では、何をもって成功としますか?

 

 

ブルックス
私自身は子供時代、飛行機のコクピットに潜り込んだり、飛行家が大西洋を往来するのを眺めることができました。しかし今日それが容易にできないのは悲しいことです。だから私たちが次代の若い人たちを刺激しなければならないのです。今回のフライトを通じて、何らかの方法でそれができれば、成功だと信じています。

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前夜からの雨に祟られた出発日朝だったが、午後になると太陽が顔を覗かせ、ギャラリーたちを歓喜させた。

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元F1ドライバー、デビッド・クルサード。飛行パイロットとサポートクルーたちにエールを送った。

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2002年映画「007 ダイ・アナザー・デイ」でボンドガールを務めた女優ロザムンド・パイク。

復元とその周期について教えてください。

ジョーンズ
500時間ごとに復元を繰り返す必要があります。製造以来、何回復元されたかは不明なエンジンですが、その都度他の航空機のように全部品が分解され、点検されたことは確かです。最後の修復後、私たちは35時間の試験飛行を行いました。一般的に飛行機という機械は、復元当初はぎこちないのですが、その後うまくいけば信頼性が向上します。そして年を重ねるにつれ、再び信頼性が低くなります。私たちが飛行する期間が、信頼性の高い時期にあたることを願っています。

トラブル発生時の解決策は?

ジョーンズ
スペアのエンジンを用意しました。加えて、すべてのパーツはいつでも発送できる準備を整えました。私たちは規則に従って整備を行う必要があります。点検周期には、毎25時間と毎50時間の2種があります。前者は1人が1日かけて作業します。後者は3人が2日がかりで行います。いずれも作業完了後は、CAA(英国民間航空局)の承認を得なければ飛行できません。整備には、イギリスインチ規格のスパナを揃えて持ってゆきます。

コクピット内の気温は?

ジョーンズ
高度1000フィート(300m)あたり2〜3℃低下します。20,000フィート(6090m)まで上昇すると40℃低下します。つまり地上気温が30℃の場合、上空はマイナス10℃になります。コクピットまで伝わってくるエンジンの熱はありますが、限りなくゼロです。

ブルックス
試験飛行で25,000フィート(7600m)に到達しましたが、これは機体製造時点から考えても最高の高度です。そのときの温度はマイナス22℃でした。

長時間飛行で、体力とメンタル双方を維持するには?

ジョーンズ
自身の限界を理解し、訓練を重ねることです。訓練とは飛行している機材と環境について可能な限り理解すること。自らの限界を受け入れ、それを超えようとしないことです。そして一回一回安全なフライトに集中します。

ブルックス
私はヘリコプター操縦に関しては豊富な経験がありましたが、スピットファイアの操縦を習得するのは極めて困難で、半年を要しました。スピットファイアは空で実にスムーズです。いっぽう飛行場に近づくと、時速210mph(約338km/h)程度の遅い速度でも、突如として忙しくなります。無線交信をし、速度を減少させフラップを下降し、すべてのチェックを行う必要があります。あまりの作業の多さに、私はメンタル的にブロックしてしまったものです。

そうした状況で、先輩たちから学んだのは「時間を稼ぐこと」でした。燃料さえあれば、何でも落ち着いてやり直せるのです。操作する手はゆっくり動かす。コックピット内で自分の手がめまぐるしく動き始めたら、それは落ち着いていない証拠です。どのような速度でも、クールで落ち着いたリズムの動作を維持することが大切です。

ジョーンズ
今日に至った経緯を思い出します。多くの人々が私たちを支え、応援してくれている中で飛ばしていることを意識するのです。同時に、かつてこの飛行機を操縦した誰もが楽しみにしていたであろう「着陸」という行為に思いを馳せます。彼らが家に戻り、家族と再会できたことの重さを、私たちは心に留めなければなりません。

お守りは持参しますか?

 

ジョーンズ
目下のところありませんが、考えておきましょう(笑)!

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ちなみに出発前、飛行場脇で展開されたパーティーでは、懐かしいトラック/バンによる屋台がレトロムードを盛り上げた。これはシトロエン・ティープ(タイプ)H。

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ルノー・エスタフェット。「フェスティバル・オブ・スピード」や「グッドウッド・リバイバル」が催される地ならではのセンスだ。

実をいうと二人に会う前の筆者は、アメリカ大陸横断のカーアクション映画「キャノンボール」に登場するドライバーたちの如く、気風(きっぷ)ばかりが先走る冒険野郎を想像していた。もしくは逆に、緊張に支配されてナーヴァスになった男たちだった。

しかし、実際の彼らは飛行直前にもかかわらず冷静であるばかりか、笑みを絶やさなかった。

「自らの限界を受け入れ、それを超えようとしない」「何でも落ち着いてやり直すことができる」「操作する手はゆっくり動かす」…繰り返しになるが、それらはいずれも、クルマやモノと接するときに作法といえる。

 

いっぽう筆者といえば日ごろ運転中、助手席の女房から「ここに止まれ」「そこを曲がれ」とった突然命令が飛ぶたび、「制動距離というものがあるのだよ!」「直角に曲がれるクルマは無い!」と逆上するとともに、動揺してステアリングやスイッチを操っている。ここは少し、2名のパイロットを見習わなければならない。

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特徴的な楕円翼型を見せながら、同型機とともに飛行するシルバー・スピットファイア。
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「シトロエンのメガネ」大ヒット

「シートロエンseetroën」とは、シトロエンが販売しているリラクゼーション用アイウェアである。円形フレームの下半分に入った青い液体が、装着している人の平衡感覚維持を助ける。

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絶賛発売中のリラクゼーション用アイウェア「シートロエン」を試す筆者。2018年パリ・モーターショーで。



もともとフランス南東部のスタートアップ企業が開発した製品で、乗り物酔いに悩まされていた人の間で話題となった。
シトロエン・ブランドで販売するにあたり、パリのデザイン事務所がリファイン。2018年7月にヨーロッパでリリースすると、初期分1万5千個がたった3日で売り切れてしまった。
日本でもプジョー・シトロエン・ジャポンが2019年6月に導入したところ、たちまち完売御礼になり、再入荷した後もまた売り切れた。

振り返れば、ヨーロッパの自動車メーカーは1990年代から、自らのブランドを冠したマウンテンバイクやファッション、ステーショナリーといったコレクションに力を入れてきた。そうしたなかでもシートロエンは、記録的ヒットといえよう。

そこで今回は、自動車ブランドが手がけてきた「クルマ以外のプロダクト」の歴史である。

フィアットの冷蔵庫

そうした商品は、「草創期型」「拡張型」「福利厚生型」そして「耐乏型」に分類できると筆者は考える。

「草創期型」とは自動車産業進出以前に、生業としていた分野である。
トヨタやスズキの織機、マツダのコルク栓に相当する。
ヨーロッパの自動車メーカーで最も良い例は、今日まで続くプジョーのコーヒーミルだ。もともと鋼(はがね)の製造を得意とした同社が、1840年に作り始めたものである。ダイムラーのライセンスで自動車の製造を開始したのは1890年だから、半世紀早いプロダクトということになる。

フランスにはそうしたミルの歴史を知り、コレクションする愛好家が少なくない。

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筆者の知人でパリ在住のディディエ氏もプジョー製コーヒーミルのコレクターである。


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同じプジョーの壁掛け式コーヒーミル。

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イタリアの知人から、何かの機会にもらったマイナスドライバー。これも往年のプジョー・グループの製品である。

「拡張型」とは業務拡張期の製品を指す。
フィアットは1899年の創立以来、さまざまな分野の製品を手掛けてきた。それを象徴するのは、1935年から使われ始めたスローガン「terra, mare,cielo(陸・海・空)」だ。

それ以前の1917年には、鉄道車両の製造に進出。部門は2000年にアルストム社に売却されるまで存在した。ちなみに、我が家があるシエナとフィレンツェを結ぶ非電化区間には、1980年代に造られたフィアット製ディーゼルカーが今も現役で走っている。

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フィアット製ALn668 3100系気動車。シエナ駅にて。

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フィアット製気動車のプレートには、懐かしいFIATロゴが。

そのフィアットは、1938年から米国ウェスティングハウス社のライセンスを取得して家電も生産していた。第二次大戦後の経済成長期には、フィアット製冷蔵庫や洗濯機は豊かな暮らしのシンボルとしてもてはやされた。
今日でもコレクターズアイテムとして保管され、ときにはこれまた現役で「フィアットの冷蔵庫」が使われているのは、イタリアが輝いていた時代のシンボルであるからにほかならない。

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フィアット製冷蔵庫。赤いバッジは後付である。トリノ・リンゴットの食堂「オステリアF.I.A.T.」にて。

イタリアを代表する自動車部品サプライヤーだった旧マニエッティ・マレリも、クルマ関係以外のものを手掛けていた。
1891年に歴史を遡り、1919年からはフィアット用電装部品を製造を開始した同社だが、1930年には「ラジオマレリ」の商標で家庭用ラジオ製造に進出している。戦後はテレビやオーディオにまでラインナップを広げたが、本業である自動車電装に注力すべく、1975年をもって撤退している。参考までにマニエッティ・マレリは2018年、FCA(フィアット・クライスラー・オートモビルズ)の傘下を離れ、カルソニックカンセイと経営統合。2019年10月にマレリと社名を改めた。

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ラジオマレリによる往年のプロダクトが、青空骨董市で売られていた。シエナにて。

ソーセージにパーツコード

「福利厚生型」とは、本来社員用に開発された製品だ。たとえばダイムラー社は1905年頃、炭酸水、レモネードそしてラスベリードリンクを毎日5〜6千本供給していた。従業員のワイン飲みすぎを防止するためだったという。収益は従業員向け基金に充当されていた。

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ダイムラーの従業員用レモネード瓶。1905年頃のもの。シュトゥットガルトのメルセデス・ベンツ博物館蔵。

いっぽう今日まで続く好例といえば、「フォルクスワーゲン(VW)のカリーヴルスト用ソーセージ&ケチャップ」であろう。
Currywurstとは原則として、輪切りソーセージにカレーパウダーとケチャップをかけて食べるファストフードである。
1974年、VWはウォルフスブルク本社工場敷地内に、社員食堂での朝食および昼食用ソーセージ工場を開設している。なお、ソーセージには「199 398 500 A」という、他のVW部品と共通様式のパーツコードが割り当てられている。2010年からはベジタリアン向けも加えられた。

VWケチャップは、そのソーセージ用として誕生したものだ。製造は食品メーカー「クラフト」が担当している。その酸味の効いた独特の味は、ふと懐かしくなる。このあたりが長続きの秘密かもしれない。

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VWのケチャップのクラシック・バージョン。ラベル下部には「そして、うまい」が3回も繰り返されている。

双方を用いた「VWのカリーヴルスト」は、毎年春ドイツのエッセンで開催される「テヒノクラシカ」をはじめとする自動車イベントでも、たびたび供されて大人気だ。

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VWのカリーヴルストは、屋内会場で展開されるときも大人気。2011年テヒノクラシカにて。



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フォルクスワーゲン(VW)のクラシック部門によるカリーヴルスト屋台。2012年ドイツ・エッセンのヒストリックカー・イベント「テヒノクラシカ」で。

台所に映える3連メーター

最後の「耐乏型」とは、第二次大戦直後、自動車以外の活路を模索したものである。その究極は、ごく少数製造されたとされる「アルファ・ロメオのオーブン」であろう。

熱源はガスと電気。イタリアでは今日でも薪式のオーブンが各地で使われていることを考えると、当時極めて先進的かつ高価だったに違いない。細部のフィニッシュからは、戦前に超高級車メーカーであったアルファ・ロメオのプライドが感じられる。3連メーターも自動車を想起させる。
航空機産業だったピアッジョは1946年にスクーター「ベスパ」で、民生産業への転換に成功した。アルファ・ロメオも、オーブンで成功していたら、またブランド初の普及モデルである1950年「1900」が失敗していたら、日本の「リンナイ」「パロマ」のようなメーカーになっていたかもしれない。

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イタリア・ミラノ郊外アレーゼのアルファ・ロメオ博物館が所蔵する同社製オーブン。

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アルファ・ロメオ製オーブンのクローズアップ。3連メーターは左から温度、 各機能の作動状況、タイマー。

冒頭に話を戻せば、シトロエンがこれを機会に、メガネのメーカーになってしまうことは考えられない。しかし、ダイムラーのスマートがEV専用ブランドにシフトしようとしている昨今である。気がつけば、一部のメーカーがシェア&自動運転EV用ブランドに変貌し、「昔はあのクルマ、自分で持ってたんだぜ」などと自慢すると、若者にホラ吹き男扱いされる時代がやってくるかもしれない。
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日本における夏の風物詩のひとつといえば、「花火大会」である。ただしイタリアではこの時期、日本ほどポピュラーではない。代わりに花火は大晦日から元旦に変わった瞬間に上げるものだ。

いっぽうイタリアで春から夏の名物といえば、「ルナパーク」と呼ばれる期間限定の仮設遊園地である。開催に先立ち、街中には下の写真のような告知ポスターが貼られる。「何十年同じモノ使ってんだよ」と思わずツッコミを入れたくなるデザインである。
もっと細かいことをいえば、ジェットコースターがあっても、イラストレーションに描かれているほど立派なものではない。
何事にも細かい日本だったら、不当景品類及び不当表示防止法とかに抵触しそうだ。だがイタリアで、そんなうるさいことを言う人は聞いたことはない。それよりも、こうしたポスターのおかげで、子供の頃から想像の世界と現実の区別を自然と学びながら大人になってゆける。
マンボなデザインも、下手に変更すると識別できなくなり、「今年は開催中止か?」とみんな混乱するに違いないから、これでいいのだ。

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期間限定遊園地「ルナパーク」告知ポスターの一例。

ルナパークにおける定番といえば、メリーゴーラウンドである。イタリア語では「ジョストラ」という。
そのジョストラは、ルナパーク以外にもアウトレットパークや街中の広場にも長期設営されていることがある。
メリーゴーラウンドに欠かせないものといえば、「馬」や「馬車」であるが、「自動車」も交じっているのが通例だ。
また、メリーゴーラウンドでなくても、そうした場所には車を模した、コインを入れると揺れる遊具が数々存在する。イタリアでは、その名も「ジョストリーナ・ア・モネータ(コイン式メリーゴーラウンド)」という。
今回は、それらの遊具の車種観察記である。

23年近くにわたるボクの観察によれば、明らかに多いのは、「フェラーリ風」「ポルシェ911風」「ジープ風」である。
ちなみにイタリアでこの業界では、北部ヴェネト州に本拠を置く「ATM」という1960年代創立の遊具メーカーが有名だ。

注目すべきは、フェラーリ風とランボルギーニ風の数を比較した場合、圧倒的にフェラーリが多いことだ。日本を含む海外では両ブランドが対等に語られることが多い。対して、イタリアではF1チームを擁することなどによるメディア露出の多さが奏功し、ファン以外のブランド浸透度では圧倒的にフェラーリが優位だ。それを遊具は反映している。

イタリアらしいものもある。好例は下の画像の3輪トラック「ピアッジョ・アペ」風だ。商用車がモティーフとなるのには、三つの背景がある。ひとつは、そのユーモラスな風貌であろう。ふたつめは、どこの街角でも生息している抜群の認知度、そして三つめは、商店オーナーの家族以外だと、本物に乗る機会は意外にないことがある。

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再びシエナ。駅前ショッピングセンターに2015年頃設置された3輪トラック、ピアッジョ・アペ風。

「ヘリティッジもの」もある。シエナの駅前スーパーの子供用買い物カートは一見、映画「カーズ」風ともとれるが、フロントフードに刻まれたリブからして、シトロエン2CVを意識したのは明らかだ。
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同じ建物の地下には、シトロエン2CV風買い物カートが。使用料1ユーロ玉+デポジット1ユーロ玉を入れるとチェーンが外れる。

もっと衝撃的だったのは、少し前からシエナ郊外のアウトレットパークに設置されたメリーゴーラウンドで見つけた1台だ。前部になんと「ランボルギーニ」と記されている。角張ったデザインも、どこかオリジナルを思わせる。

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夜間撮影ゆえのブレはお許しを。ランボルギーニ・トラクター。シエナ県のアウトレットパークにて。

多くの読者がご存知のとおり、ランボルギーニの歴史は、フェルッチョ・ランボルギーニによって第二次大戦直後に興されたトラクター製造会社に遡る。1963年に自動車部門「アウトモービリ・ランボルギーニ」が設立されたあともトラクター部門は存続する。1972年にフェルッチョはトラクター/自動車部門の双方の売却を決定。トラクター部門はイタリアの農機会社「サーメ」に吸収された。「ランボルギーニ」ブランドのトラクターは、サーメ社改めSDF社によって2019年現在も生産されている。

イタリアでは今日でも70歳以上のお年寄りだと「ランボルギーニ」というと、スーパーカーよりも真っ先にトラクターを思い出す人は少なくない。そうした世代の人たちは、孫が「“トラクター”に乗りたい」といえば、懐かしんでガマぐちを開くだろう。

最後にもうひとつ。面白いのは、こうした遊具は、トレンドを反映することだ。
2007年に現行フィアット500登場すると、イタリア中で「なんちゃって先代フィアット500」を見かけるようになった。a459e04ae31565f9085baa41efcbc547ba66c446_xlarge.jpg
先代フィアット500風も定番のひとつである。ATM社製。


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エンブレムがFIATではなく「FAIT」なところがミソ。


いっぽう下の写真はシエナで先日撮影したものである。こちらはとりあえず世界的玩具メーカーのミニカーブランド「ホットホイールズ」の公認だ。
モティーフとなった車種は特定できないが、左右フェンダー/バンパーと一体の切り立ったエアインテークを採用している。日本でも現行トヨタ・プリウス後期型などにみられる近年のデザイントレンドである。
自動車メーカーの現役デザイナーも、休日に遊園地やショッピングセンターで、こうした遊具を目にするたび、自らのデザインの方向性が正しかったことを「ムフフ」と心の中で喜んでいるに違いない。

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2019年、シエナの駅前ショッピングセンターに新たに加わった1台。最新のデザイントレンドを巧みに反映している。

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フェラーリF40風。残念ながら「故障」の張り紙も、イタリアにおける社会勉強のひとつ?1回0.5ユーロ(約60円)の安心価格。シエナ県ポッジボンシにて。

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これはスイスで見つけたものだが、ポルシェ911風。


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アメリカンな幌馬車の横にジープ風。フィレンツェのショッピング・モール「イ・ジーリ」にて。


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参考までに、怪しさ満点の日本キャラクター風。





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パガーニ風もあり。みんな、わかるかな。イタリアのATM社製。


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パリにて。その全幅からしてキャディラック・アランテあたりかと思いきや、BMWZ3のつもりらしい。


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同じメリーゴーラウンドには、ハーレー・ダビッドソン風も回っていた。
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イタリアの路上では、思わず笑いがこみあげる光景に日々遭遇する。
今回は、そうしたものを読者諸兄と楽しみたい。

最初は、北部パドヴァのホテル駐車場でのフォルクスワーゲンのマルチバンだ。

まずは初代タイプ2を模した2トーンカラーに目を奪われた。しかし、よく見ると最後列にお年寄りが乗っているではないか。

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2トーンカラーのフォルクスワーゲン。最後列に人影が。

「涼しい早朝とはいえ、おばあちゃんを一人で車内に残すとは、なんという奴だ」と憤慨しそうになってよく見れば、なんとエリザベス英国女王の写真ステッカーであった。
このステッカー、イタリアのものでなく輸入品であろう。イタリア版として「ベルルスコーニ元首相」ができれば、筆者などは彼を乗せてドライブしたい。

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恐れ多くも、あの方がお乗りだった。

イタリアで頻繁に見かけるジョークといえば、洗車していない車のウィンドーに指で記された“ラーヴァミ”の文字だ。Lavamiとは「私を洗って」を意味する。
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ばっちいクルマによく落書きされている「Lavami(私を洗って)」。

いっぽう、こちらは筆者が住むシエナ市街で発見したものである。いたずらか経年変化か、一部が剥がれてしまった「タクシー乗り場」標識を、誰かがサインペンで“修復”。ついでに楽しそうなドライバーと乗客まで描いてしまっている。流し営業は原則として存在せず、乗り場にいてもなかなか来ない我が街のタクシーだが、これを眺めていれば待ち時間のイライラも和らぐ。
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タクシー乗り場のサイン。オリジナル以上の“修復”が。

次は、あっぱれなディーラーである。こちらの自動車販売店では、納車するナンバープレートのフレームに店名を入れるのが長年の慣習だ。シエナのスズキ販売店は、思い切りカタカナで「スズキ」と入れてしまっている。何年も続いているところを見ると、顧客から好評なのに違いない。
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シエナのスズキ販売店によるナンバープレート用フレーム。カタカナでオシャレ感増幅。

2019年夏、イタリアで流行の兆しがあるデコレーションといえば、リアワイパーを猫の尻尾に見たてたステッカーである。作動させればフリフリしているように見えるわけだ。
雨天と渋滞はどんなドライバーにとっても憂鬱なものだが、これを見ていれば後続していても退屈しない。

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猫が尻尾をフリフリ。


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2019年初夏から繁殖中の模様。

イタリア経済の先行きは依然不透明である。イタリア統計局によると、2019年3月の失業率は10.2%で、15-24歳に限ると、その数は30.2%にまで上昇する。
倒産件数や経営危機も依然高止まりだ。日本でも知られるブランドを挙げれば、2017年末に創業160年の帽子ブランド「ボルサリーノ」が倒産。2019年に入ってからは、デザイン・コンシャスで知られるキッチングッズ・メーカー「アレッシィ」のリストラが伝えられた。

そうした社会で、路上やウィンドスクリーン越しに見るちょっとした笑いが、一服の清涼剤であることはたしかだ。同時に筆者は、たとえ既製品であっても、それを選んだ仕掛け人の性格を想像し、「経済破れても、ノリのいいイタリア人あり」と心穏やかになるのである。
ちなみに筆者のクルマも、常に前述の「ラーヴァミ」が書かれておかしくない状態である。駐車監視モード付きドライブレコーダーを装着し、どんなイタリア人が落書きしてゆくのかを記録できれば楽しいかも、と密かに考えている。

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witten by Akio Lorenzo OYA
世界中
うんうんする
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文 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA
写真 Akio Lorenzo OYA/Museo dell’Automobile Torino/FCA

あのテージスのデザイナー

2019年現在、イタリアで最も使用頻度が高い大統領専用車は、2012年に導入されたランチア・テーマである。ただし、米国製クライスラー300の姉妹車だ。

いっぽう、それ以前はランチア「テージス」のベルリーナおよびそのストレッチ・リムジンが使われていた。

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ランチア・テージスは、イタリアで政府公用車としても多く用いられた。


テージスは2001年に発表されたランチアの最高級車であった。
そのデザインをディレクションしたのは、マイケル・ロビンソンである。

マイケル・ヴァーノン・ロビンソンは、1956年米国ロサンゼルスに生まれた。
16歳のある日、クラスメイトから見せられた自動車の写真に衝撃を受けた。
「図書館に行って資料を片端からめくりました。そして、ベルトーネというイタリアのカロッツェリアがデザインしたストラトス・ゼロという車であることを突き止めたのです」
それをきっかけに、マイケルはイタリアでカーデザイナーになることを目標にする。

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若き日のマイケルが衝撃を受けた1970年ベルトーネ・ランチア・ストラトス・ゼロ





ワシントン大学で学んだのち、デトロイト近郊ディアボーンのフォード・デザインセンターと、スウェーデンのボルボでインターンを経験した。
母国アメリカは当時、世界をリードする自動車生産国であった。しかし、イタリアへの憧れからすれば、それは取るに足りないものだった。

 

フィアット/ランチア時代

1980年、憧れの地トリノにやってきて最初に就いたのは、同地にあったオペルのデザインセンターだった。その後ギアを経て1986年にフィアットに移籍。1995年フィアット・ブラーヴォ/ブラーヴァのインテリア・デザインなどを担当した。
「フィアット(のインテリアデザイン)に、エルゴノミックなカーブを採り入れたのは、私が最初でした」とマイケルは振り返る。イタリアに来てから実際にブラーヴァを所有していた筆者は、その有機的な曲線を描いたダッシュボードを、よく記憶している。

やがて1996年、同じフィアット・グループのランチア・デザインに異動。ブランドの復興にあたることになる。当時の代表作がリブラと冒頭のテージス、そして2代目イプシロンである。
ランチアがとびきり上品な高級車だった時代のデザイン・ランゲージを現代風に解釈した。

その後再びフィアット・デザインセンターのダイレクターに就任後、2005年マイケルは約19年にわたるフィアット・グループ在職にピリオドを打った。

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2001年ランチア・テージスと、1950年のランチアを代表する1台、アウレリアB20。





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フィアット時代に手がけた1995年フィアット・ブラーヴァのインテリア。


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1998年ランチア・リブラ


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テージスのデザイン言語を示したコンセプトカー、1998年ランチア・ディアロゴス。


フォーエヴァー・マイケル!

フィアットを離れてからのマイケルは、雑誌クアトロルオーテ誌にデザイン評論を執筆。毎号イラスト付きのそれは、人気連載となった。

 

しかしカーデザイン界は、彼の才能を見逃さなかった。
ベルトーネがエグゼクティヴ&ブランドデザインダイレクターにマイケルを据えたのである。53歳の年だった。
彼が青年時代に憧れ、この道に入るきっかけとなった、あのベルトーネだ。

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マイケル・ロビンソンがベルトーネのデザインチームを率いていた時代に発表した2010年アルファ・ロメオ・パンデオン

ベルトーネでもブランド復興を担ったマイケルは、ジュネーヴ・ショーで2010年から4年連続でコンセプトカーを発表。2012年のヌッチオは、16歳の日初めて出会ったストラトス・ゼロへのオマージュだった。
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ヌッチオ・コンセプトとマイケル。「(ピラーの)オレンジは、長年にわたるベルトーネのイメージカラーです」



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2012年ベルトーネ・ヌッチオ・コンセプト


2013年のアストン・マーティン・ジェット2+2シューティング・ブレークでは、自らジェームズ・ボンド風いでたちで現れた。

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アストン・マーティンということで、本人は007風で決めて登場。傍らに立つ彼の娘も、現在デザインの道を歩んでいる。




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ベルトーネ・アストン・マーティン・ジェット2+2シューティング・ブレーク。2013年ジュネーヴ・ショーで。

そしてトリノ自動車博物館の「デザイナー殿堂」入りを果たした2013年からは、ふたたびフリーランスのデザイナーとして活躍している。

マイケルが去ったあとのベルトーネは複雑な経緯を辿った。しかし彼のベルトーネへの尊敬の念は変わらない。
2018年4月ミラノ・マルペンサにオープンした旧ベルトーネの歴史コレクションには、マイケルがボランティアで撮影したベルトーネ旧社屋の俯瞰写真が掲げられた。

さらに旧ベルトーネで実際にストラトス・ゼロをデザインしたマルチェッロ・ガンディーニの回顧展企画では、監修者のひとりとして名を連ねた。
2019年1月に開かれたそのオープニング・トークショーには、ガンディーニ本人とともに登壇した。

今日、自動車業界のニュースを眺めれば、幹部の他社移籍の知らせが溢れている。それどころか、別業種への転職も珍しくない。

いっぽうマイケルは、青年時代に灯した情熱の火を保ち続けた。先行き不透明だった時代のフィアットでは、果敢にも過去のブランドになりかけたランチアの復興を手がけ、さらに自分の人生を決めたベルトーネにも貢献した。

それだけの仕事をこなしながら、いつも対話者を笑いに導く。
たとえば、念願叶ってストラトス・ゼロと対面したときの話だ。学生時代バスケットボール選手でもあった長身の彼に対して、ストラトス・ゼロの全高は僅か84cm! 乗り込むのに苦労が伴ったことを、ジャスチャーを交えてユーモラスに語って聞かせてくれる。

2019年で63歳。現代のカーデザイン界はもとより、自動車ビジネスにおいても類まれなるカー・ガイである。

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トリノ自動車博物館「ガンディーニ 隠れた天才」展では監修を務めた。なお同展は、2019年5月26日まで開催中。

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大矢アキオ ロレンツォAkio Lorenzo OYA在イタリアジャーナリスト/コラムニスト/自動車史家。音大でヴァイオリンを専攻。日本の大学院で比較芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。自動車誌...
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