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独特の目線でイタリア・フランスに関する出来事、物事を綴る人気コーナー
witten by Akio Lorenzo OYA
世界中
うんうんする
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文と写真 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA

彼女に会いたくてドライブ→検挙

イタリアでは新型コロナウイルス感染対策として、2020年3月10日から事実上の国土封鎖と移動制限が実施されている。急務でない生産・商業活動も3月12日から休止されたままだ。
当初4月3日だった期限は2回にわたり延長され、本稿執筆時点では5月3日まで続く予定だ。そのとおりになると、約2ヶ月弱にわたり封鎖が行われることになる。

今回は、そうした状況下、イタリアの中古車市場はどうなっているのかを探ってみた。

その前に、筆者がどのような生活をしているか、カーライフを中心に説明しよう。
徒歩であれ車であれ、外出は厳しく制限されている。
具体的には、食料・生活必需品・薬品の購入、通院、食品や医療機器生産など許可業種の通勤に限られる。
家屋周辺の散歩は許されているが、気分転換のドライブは不可能だ。一部州ではジョギングさえ許されていない状況を考えれば当然である。
ちなみに先日我が県で、ある若者が本人いわく「彼女が恋しくなり」会いに行こうとクルマを走らせていたら検挙された事件は、同情も加わって全国ニュースとなった。

外出の際は内務省発行の自己申告書をダウンロード・出力したうえで、必要不可欠な移動であることを示すための目的地を記入。加えて、新型コロナ隔離対象者でないことを宣誓する文に署名して携行しなければならない。

隣の自治体への移動さえ許されていない。検問は市警察・国家警察そして軍警察(憲兵)によって路上において実施されている。筆者は先日、アルファ・ロメオ・ジュリエッタの覆面パトロールカーも確認した。

罰金の金額は3月26日、最高3千ユーロ(約36万円)まで引き上げられた。
参考までに4月1日にインターネット受付が開始され、筆者も申し込んだ自営業者向け一時給付金は一律600ユーロ(約7万1千円)にとどまる。万一検挙されたら、一気に吹き飛ぶ額だ。

給油所はライフラインのひとつとして開店許可業種だが、売店は営業していない。
ガソリン価格の元となる原油価格は18年ぶりの安値というのに、自由に車を運転できないのは、なんとも皮肉である。

ただし周囲のイタリア人に関していえば、筆者が思っていた以上に辛抱強い。
3月最終日曜日からサマータイムに切り替わって夜が明るくなった。日中の気温も日増しに温暖になっている。それらが人々の心理にプラスに働いていることは明らかである。

あとは、本格的な夏の日差しとなって彼らが大好きな海に行きたくなる前に、この災難が収束することを願うばかりである。

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商業施設の休業が命じられた2020年3月12日午前に撮影。この日からシエナ市のFCA販売店中古車展示場は、今日まで閉鎖されたままだ。

売れる車の10台に8台は中古車

この状況下、自動車販売店の多くは修理部門を予約制にし、緊急性を有するものを優先している。
ショールームは営業が許されていないので、各ブランドはインターネットで見積や予約を続ける旨アピールしてきた。
ただし実際の結果は惨憺たるものだった。2020年3月の登録台数は28,326台で、前年同月(194,302台)と比べマイナス85.4%となった。
自動車購入マインドが極端に冷え込んだことを如実に物語っている。

今回のテーマである中古車も同様に影響を受けている。イタリアでその市況を示す自動車の名義変更数によると2020年3月は110,715台で、前年同月(270,942台)と比較して、59.1%のマイナスとなった(イタリア自動車クラブ調べ)。

新車+中古車の合計を元に中古車の比率を計算してみると、2019年3月は58%だったのに対し、2020年3月は79%。中古車需要が急上昇したことがわかる。

イタリアでは、「km0(キロメトロゼロ)」と呼ばれる登録済新古車が、平常時から相当数流通していて、多くのユーザーは新車よりもまずそちらを検索する習慣が定着しているのも事実だ。それにしても、極言すれば売れる車の10台に8台は中古車になってしまったのである。

そうした状況下で中古車価格はどうなっているのか。
業界を俯瞰したデータはまだ発表されていないので、筆者が過去にチェックしていたものを参考にお伝えする。

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ミラノにあるメルセデス・ベンツ販売店に並ぶ大量のスマート・フォーフォー。2019年5月撮影。


写真は昨2019年5月末、ミラノを代表するメルセデス・ベンツ販売店で撮影したものである。ここは州内最大級のディーラーで、いつも大量のメーカー認定中古車を、いわば均一価格で扱っているので、時系列での価格推移をみるにはうってつけだ。

そのとき並んでいた「スマート・フォーフォー」は大半が2017年登録、つまり2年落ちで走行3万キロ台。価格は9900ユーロ均一であった。
今回執筆にあたり同じ販売店のウェブサイトを見る。すると2018年登録、つまり同じ2年落ちでほぼ同様の仕様の車が7900ユーロで売り出されている。2000ユーロ(約23万円)も安くなったことになる。

同じ店のメルセデス・ベンツAクラス(W176)A180dも比較してみる。走行4万キロ弱・3年落ちのモデルは昨2019年に20,900ユーロで大量に売られていたが、現在確認すると1000ユーロ(約12万円)下がって19,900ユーロ(約236万円)だ。

ディーゼル復活の兆しか

 

 

次に個人的好奇心も手伝って、「新車当時、世間的には不人気だったものの、気になっていた車」の相場も確認してみる。
参考にしたのは、5万軒のディーラー・2百万台を網羅する欧州最大の中古車情報サイト「アウトスカウト24」である。

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ランチア・テージス(本文中の車両とは関係ありません)。

まずは「ランチア・テージス」。イタリア国内では55台がリストアップされている。
新車時に官公庁やハイヤーで使われた個体が多いためだろう、大半がディーゼルで走行20万キロ台が中心だ。最安は2002年登録の1500ユーロ(約17万8千円)、最高でも2008年登録で1万0999ユーロ(約130万円)である。
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アルファ・ロメオ・ブレラ(本文中の車両とは関係ありません)。2018年シエナにて撮影。

「アルファ・ロメオ・ブレラ」もバーゲンといえる。135台も出品されていて、およそ1万3千ユーロ(約154万円)が中心価格帯といえる。格安は走行18万キロで2900ユーロ(約34万円) の2009年2.4JTDmディーゼルだ。

実は新型コロナウイルス以前にも、中古車価格は下落していた。理由は少なくともふたつある。
ひとつは税務調査だ。近年イタリアでは新車/中古車問わず、価格が2万ユーロ(約250万円)以上の車両を購入した者は、原則としてすべてが調査の対象となっている。
前述のメルセデス・ベンツAクラスが19,900ユーロという微妙な価格設定に書き換えたのも、それを意識したと考えてもよいだろう。いくら高級車でも高額では売れないのだ。

ディーゼル車に対する環境規制の強化も価格低下に拍車をかけた。
先に挙げたイタリア車のディーゼルは、いずれも欧州排出ガス基準における「ユーロ4」である。すでにミラノをはじめ北部大都市の数々では乗り入れが禁止されている。

ただし、ディーゼルの中古車に限っていえば外出規制解除後、若干人気が持ち直すかもしれないと筆者はみる。

イタリア政府が新型コロナ対策に注力するため、これまで進められてきた脱ディーゼル化や電気自動車(EV)インフラの拡充に遅れが生じることが予想できるからだ。
休業措置で収入が減少している国民に、すぐにEVに買い替えよ、とはいえない。

燃料価格という面からしても、環境政策で長年軽油をガソリンより高価に設定しているスイスと違い、イタリアの給油所では今も軽油のほうがガソリンより安い。
新車当時から「イタリアの道には大きすぎる」といわれていたテージスやブレラが売れ始めると到底思わないが、そのような理由で、安くなったディーゼル中古車に一定の需要が生じるかもしれない。

ウチもこれで十分?

筆者がもうひとつ、意外な引き合いがあるのではないかと予想しているのは、「クアドリチクロ・レッジェーロ」と呼ばれる軽便車である。

欧州委員会が定めた規格で、車両重量425kg以下、最高速度45km/h以下、ガソリンの場合排気量50cc以下、その他(ディーゼルなど)は出力4kW以下と定められている。
ゆえに高速道路の走行は許可されていないが、日本の原付用に相当する免許で運転が可能だ。イタリアでは14歳から操縦が許されている。

もともとは普通免許の更新が難しくなった高齢者が主なユーザーだったが、税金・保険とも原付二輪車に準じることから、経済が低迷する近年では幅広い年代に需要がある。
「ラ・レッププリカ」紙2017年4月11日付電子版がイタリア自転車・自転車協会(ANCMA)のデータとして伝えたところによると、イタリアでは一段上の規格も含め約8万台のクアドリチクロが走っているという。

中古も一定の市場がある。価格にもそれが如実に反映されていて、10年落ち・走行52,000kmでも4500ユーロ(約53万円)という強気のオファーさえネット上で見かける。

生活が厳しくなるなか、クアドリチクロ・レッジェーロの需要は、より加速するかもしれない。

我が街の公共駐車場には、少し前から「売りたし」の貼り紙とともに、赤いクアドリチクロが置かれている。週一度家を出るのは近所の買い物だけという外出制限生活のなか、その車の横を通るたび「ウチも、実はこれでいいんじゃないか?」と考え始めた筆者である。

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外出制限で閑散とした公共駐車場。VENDESI(売りたし)の張り紙とともに置かれたイタリア製クアドリチクロ「ジンコ」。2020年4月10日、シエナにて撮影。
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文 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA
写真 大矢アキオ/ソニー株式会社

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ソニー歴史製品展示コーナー「History Wall」は、東京・品川駅港南口の本社1階ロビーに設けられていて、自由に見学できる。

“ソニーの車”の衝撃

自動車に関心を向ける人にとってソニーといえば2020年1月、米国ラスベガスのエレクトロニクスショー「CES」のニュースが新しい。
展示された電気自動車「VISION-S Prototype」は、“ソニーが自動車を発表”と世界のメディアが報じた。

同車には車載向けCMOSイメージセンサーを中心に計33個のセンシング・デバイスが搭載されているほか、ネットワーク時代を見据えた技術、自動運転に対応したエンタテインメント・コンテンツが盛り込まれている。

車両開発でパートナーを務めたのは、オーストリアのグラーツを本拠とするマグナ・シュタイヤー社である。製造部門はトヨタGRスープラを手掛けているので既知の読者も少なくないだろう。

なお、VISION-Sは車名ではない。発表文を引用すれば、ソニーは「モビリティにおける安心・安全から、快適さやエンタテインメントなども追求する取り組み」の総称として位置づけている。

スペシャルサイトにも「プロトタイプ車両は、将来のコンセプトを示すためのもの」と但し書きともいえる一文が付されている。
つまり、ソニー・ブランドの自動車が明日登場するというわけではなく、テクノロジーのショーケースなのである。

しかし、突然現れたこのコンセプトカーは、同社の歩みをあらためて振り返ってみたい意欲を筆者に駆り立てた。

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ソニーが2020年1月のCESで公開した「VISION-S Prototype」 (ソニー株式会社提供)
 

フライパンで磁性粉を煎っていた時代

ソニーの広報・CSR部に確認してみると、残念ながら、かつて北品川に存在していた「ソニー歴史資料館」は2018年末をもって閉館していた。筆者は一度も訪れたことがなかっただけに、惜しい。

だが代わりに、スタッフいわく「歴史資料館時代よりも規模は小さいものの」品川駅港南口の本社1階に昨2019年3月から歴史製品展示コーナー「History Wall」が開設されているという。

そこで2020年2月、筆者は東京滞在の折に訪ねてみた。

出迎えてくれたのは、広報・CSR部 コーポレート広報グループ シニアPRアドバイザーの岸貴展氏。ご本人は1964年生まれというから、ソニーが特にコンシューマ製品分野で世界を驚かせ続けた時代と共に歩んだ世代である。これは解説者として心強い。

実際にコーナーを訪れると、L字型のスペースに歴代主要製品が、それもほとんどがケースに収納されることなく展示されている。

説明パネルは敗戦の翌年である1946年、ソニーの前身である「東京通信工業」を井深大と盛田昭夫が設立したところから始まる。東京・日本橋の百貨店「白木屋(現在のコレド日本橋の場所)」の建物内にあった10坪の部屋を間借りしての船出だった。

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1946年の東京通信工業株式会社設立趣意書(複製)。有名な一文「一.真面目ナル技術者ノ技能ヲ最高度ニ発揮セシムベキ自由闊達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」が読める。

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草創期の社名プレート(左)と、後年のオープンリール式テープ「ソニテープSoni-Tape」(右)。パッケージに記されているのは、初期の社名ロゴである。

残念なのは、ソニー企業サイトの歴史ページで紹介されている、「うまく炊けるほうが稀だった」という試作型電気炊飯器や、「毛布を焦がしてしまった」と客から苦情が相次いだ電気ざぶとんといった草創期の失敗作や商品がないのが惜しい。展示物はすべて、いわば“かっこいいソニー製品”なのである。

そうした思いがよぎりながらも、ふたたび時系列を追ってゆく。
東京通信工業が開発に挑戦した製品は録音機であった。日本初のテープレコーダー「G型」(1950年)のテープは紙製だ。「シュウ酸第二鉄をフライパンで熱して磁性粉にし、ラッカーで溶いてテープに塗っていました」と岸氏は解説する。初期の納入先は最高裁判所などであったという。

 

しかし、「大衆に直結する仕事がしたい」という井深の思いが次なる製品開発につながった。
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日本初のテープレコーダーである「G型テープレコーダー」。裁判所をはじめとする官公庁需要が中心だった。

 

「ソニー」の名前に社員が反対

それがトランジスタ・ラジオだった。
1950年代初頭、東京通信工業はトランジスタの特許を保有していた米国のウェスタン・エレクトリック社からライセンス供与の合意を取り付けた。しかし契約は製造の許可のみで、製造ノウハウについては一切公開されなかった。のちの4代社長となる岩間和夫が渡米しても、工場内での写真撮影はおろかメモも禁止された。
そこで岩間は記憶を頼りにホテルでメモし続け、それをエアメールで送ることを繰り返した。「彼が3ヶ月後に帰国すると、東京では試作品が完成していたといいます」と岸氏は説明する。こうして1955年、日本初のトランジスタ・ラジオ「TR-55」が誕生した。

展示では井深、盛田と並び、1982年から社長を務めることになった大賀典雄についても、さまざまな形で触れられている。東京芸大卒のバリトン歌手であった大賀は、当初嘱託として草創期のソニーに参画していた。だが岸氏によれば「二足の草鞋生活はきつく、ある演奏会の最中、舞台の袖でつい居眠りをしてしまったのがきっかけで、ソニーに専念することを決意」したという。

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1955-58年までの歴代トランジスタ・ラジオが並ぶ。


東京通信工業株式会社からソニー株式会社に社名を変更したのは、1958年である。
そのとき社員の一部からは反対の声があがった。「当時カタカナ社名が一般的でなく、せめて『ソニー電子工業』といった名称にというのが彼らの主張でした」と岸氏。
しかし、盛田はソニー株式会社への社名変更を押し通した。「我々が世界に伸びるためだ。将来、(この会社が)何を手掛けているのかはわからない」というのが理由だった。

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トリニトロン方式カラーテレビ1号機である1968年「KV-1310」。従来のシャドーマスク方式と比べて2倍相当の明るさを実現した。

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ベータ方式VTRの1号機である1975年「ベータマックスSL-6300」。同年には、TVチューナー内蔵のモデルも登場。裏番組録画が可能になった。


社員自ら“ホコ天”でパフォーマンス

1968年「トリニトロン・カラーテレビ」、1975年「ベータマックス」が続いたあと、ディスプレイされている製品といえば、あの1979年“ウォークマン”である。

参考までに、筆者が23年前イタリアに住み始めたとき驚いたのは、現地の人々にとって“Walkman”とはソニー製を指すものではなく、再生専用・小型ヘッドホンステレオの総称となっていたことである(注:「ウォークマン」はソニーの登録商標で他社は使用できない)。
加えて、その誕生はイタリア人にとって衝撃的であったらしい。昨2019年も、筆者が住むトスカーナ州ルチニャーノで開催された春祭り「伝説の1980年代」では、”ウォークマン”を模した巨大な山車が練り歩いた。

しかし「技術的に新しいものはなかったことも事実です」と岸氏は説明する。
当時の井深は出張で飛行機に搭乗する際、従来型ステレオカセットテープレコーダー“デンスケ”とヘッドホンを組み合わせて音楽を鑑賞していた。
ある日その井深が、モノラルのポータブルテープレコーダーにステレオ機能を加えることを依頼。開発陣は、既存商品の“プレスマン”を改造して、試作品を制作した。

再生専用に割り切ったその試作品に、別部門が手掛けていた軽量ヘッドホンを組み合わせれば売れると提案したのは盛田だった。「学生が夏休みにはいる前に出せ」という号令のもと、発売日は7月1日に設定された。

 

販売店の反応は「録音機能がないなんて」と冷ややかなものだった。実際に発売後も約1ヶ月は売れない状態が続いた。しかし社員が毎週末、”ウォークマン”を身につけて、歩行者天国を歩きまわるという、いわば草の根作戦でその存在を若者に知らしめた。やがて有名芸能人が装着して人気雑誌写真に収まるという幸運も加わった。
こうしたことから歴史的ともいえるヒットに繋がった”ウォークマン”は、技術のソニーが商品企画についても秀逸であったことの証左として語り継がれている。

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“ウォークマン”1号機である1979年「TPS-L2」。超軽量ヘッドホンは、偶然別部門で開発が進行していたものだった。。

はじめにひとつの木型ありき

 

世界初のポータブルCDプレイヤーとして1984年に発売された「D-50」の右側に、木型がひとつ並んでいる。よく見ると表面に「OHSONE」というサインペンの文字が記されている。
背景を岸氏は、こう打ち明ける。
D-50の開発にあたって、当時オーディオ事業部長だった大曽根幸三は、目標とするサイズを木型で提示した。ところが開発陣にとって、当初その寸法内にすべての機構を収めることは困難を極めた。
「そこである日彼らは、こっそり木型を、ちょっと大きなサイズのものに差し替えてしまった。後日それを見破った大曽根は、“本物”に自分の名前を記した…という話を聞いたことがあります」。三十数年前の現場での攻防が、目の前に蘇ってくるエピソードである。

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世界初のポータブルCDプレイヤーとして登場した1984年「D-50」。

製品展示に隣接して、盛田、井深両氏が生前に遺した語録を紹介するビデオのコーナーもある。そのなかでは、とくに「未来を予測するのはあまり意味がない。自分で創りだす気構えが必要」と話す井深の姿が印象的だ。

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1994年に発売された、ソニー・コンピュータエンタテインメント(現:ソニー・インタラクティブエンタテインメント)による家庭用ゲーム機第1号であるプレイステーション®。△、◯、✕、□ボタンのアイコンは後継機のトレードマークとなった。
ちなみに2015年にはニューヨークの出版社から、ソニーの歴代製品を紹介した写真集が出版されている。

www.sony.co.jp


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2001年に設立されたソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズが手掛けたフューチャーフォンの数々。

“見えないモーター”になるか?

展示はコンテンツ事業、CMOSイメージセンサー、医療機器など、今日ソニーを支える各種ビジネスで締めくくられている。

コーナーは面積が限られている。また前述したように“失敗作がなく、かっこいいソニーだけ”だ。だが、戦後日本のひとつのストーリーが凝縮されているのは事実で、その内容の濃さは集積回路の如くといえる。

ロケーションも良い。東海道山陽新幹線の始発駅のひとつである品川駅から徒歩圏だから、東京都内を拠点とする人のコーヒーブレイクのみならず、出張の折にも気軽に立ち寄れる。

最後に冒頭の「VISION-S Prototype」に話を戻せば、ソニーとマグナ・シュタイヤーは、2020年度中の公道走行試験を目標にしている。

将来、このHistory Wallに同車やソニーの自動車関連技術が紹介されるのか、現在の著者は知らない。しかし、この企業のあまりにダイナミックなモノづくりの軌跡が、VISION-S を前進させる、目には見えないモーターとなることに期待しようではないか。

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広報・CSR部の岸貴展氏は1987年入社。元バリトン歌手らしい大柄な体躯の大賀典雄が入社式で壇上に立ち「SONYの4文字はソニーの最大の財産」と誇らしげに語ったのを鮮明に記憶している。


【information】
ソニー株式会社 本社1階 歴史製品展示コーナー「History Wall」 

〒108-0075 東京都港区港南1-7-1
JR品川駅港南口より徒歩5分
開館時間 10:00~18:00
休館日 土日祝日、および会社休業日
入場料 無料
※通常はガイド無しの自由見学です。

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文と写真 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA

日本では昨2019年の乗用車車名別新車販売台数で、トヨタ・プリウスがまたもや1位になりそうだ。いっぽうで、イタリアの2019年における新車登録台数は、なかなか興味深いものとなった(データはUNRAE調べ)。

本来ならば、ランキングは下位から上位へと向かうものだが、今回の結果は、逆のほうがより楽しめる。
第1位はフィアット・パンダ(138,132台)である。2017年(124,266台)比で11%増である。現行モデルは2011年発売だから今年で9年目のモデルとしては大健闘といえる。2019年のイタリア国内総生産(GDP)は僅か0.2%増。経済に本格的回復の兆しが見られない中、パンダは堅実な選択肢なのである。

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シエナにてフィアット・パンダ。乗っているのは、教会の修道女の方々だった。以下写真は、フェイスリフト前のモデルを含みます。

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ルッカ県の村で。フィアット・パンダ2台。




続く2位はランチア・イプシロンだ。台数は58,759台と、パンダの半分以下である。しかしながら、前年の4位から2ランクも這い上がった。
こちらも姉妹車のパンダ同様、花の(?)2011年デビューモデルだ。
イプシロンの強みをイタリアの自動車販売関係者は、「イタリア人が好きな“小さな高級車”感」と分析する。パンダより強いお洒落感を醸し出しているところが、ユーザー心をくすぐるのである。
前述のような経済状況下で「高級車には乗れない。でもパンダはちょっと」というドライバーを獲得しているのである。それは1950年代末から60年代、先代フィアット500の傍らで、その姉妹車であり、イプシロンの遠い祖先でもあるアウトビアンキ・ビアンキーナが一定の人気を獲得したのと似ている。
参考までにイタリアでランチアは、女性ユーザー比率が市販車中最も高いことでも知られる。新車購入見積もりを依頼するユーザーのうち、48%が女性である(driveK調べ)。ランチアは目下イプシロン1車種なので、それはすなわちイプシロンということになる。

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シエナのFCA販売店に展示されたランチア・イプシロン。

3位のダチア・ダスターは、前年の圏外から急浮上した(43,701台)。
参考までにダチアとはルノー・グループのサブブランドである。ダスターは日産-ルノーのB0プラットフォームを用いたSUVだ。今回の急躍進は「頭金なし。1日5ユーロ」といったキャッチーな残価設定ローンが功を奏したのはたしかだ。同時に、2018年に発表された現行モデルは初代と比べて格段にスタイリッシュで、“ローコスト版ルノー”のイメージが希薄なのも人気の理由である。依然続くSUV/クロスオーバー・ブームも人気を後押しした。


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シエナのルノー・ディーラーの一角は、ダチアの展示スペースに充てられている。右がダスター。

以下、4位フィアット500X(42,554台。前年3位)、5位ルノー・クリオ(41,792台。前年2位)、6位ジープ・レネゲード(41,683台。前年5位)、そして7位シトロエンC3(41,646台。前年6位)と続く。8位のフォルクスワーゲンT-Roc(39,600台)は初の圏内入りである。

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ジープ・レネゲードと熟練セールスマン2名。


9位には、トヨタ・ヤリス(36,805台)が入った。好調を牽引したのはハイブリッド仕様だ。かつてプリウスがイタリアに導入されたときと比べて、地方自治体などによる各種奨励金はあまり期待できなくなった。だが環境志向がトレンドともいえる高まりをみせる中で、「市街地走行では50%以上がEVモード」、またプラグインでないから当然なのだが「充電不要」といった巧みなキャンペーンが消費者の心に刺さったようだ。事実、我が街シエナでヤリス・ハイブリッドを購入した知人は、そうしたトヨタ・イタリアのPRにすっかり心酔したようで、筆者に「チャージしなくていい電気自動車とは素晴らしい!」と興奮気味に語った。
加えて、初代ヤリス誕生から20年が経過し、日本ブランドでは抜群の知名度を獲得していることもプラスに働いている。

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トヨタ・ヤリス・ハイブリッド欧州仕様はフランス工場製。エンジンルームが誇らしげに開けられて展示されていた。シエナで。


なお10位は、ジープ・コンパスがやはり初のトップ10入りを果たした。これもSUVトレンドの恩恵であろう。

最後に、2018年まではトップ10の常連であったにもかかわらず、今回から圏外となったモデルがある。1台はフォード・フィエスタ、そしてもう1台は、なんとあのフィアット500である。
思えば、デビューは2007年。2020年で13年選手である。そろそろ数字が落ち着いても当然であろう。同じ年に登場した日本のダイハツ・タントは、現在までに2回モデルチェンジしていることを考えると、いかに長寿であるかが窺える。

気になるのは新型500だ。Autocarは2019年8月、次期500の姿として、BMWi3のようなリアヒンジの後部ドアをもつ予想イラストを公開している。現行モデルから5ドア化に踏み切ったランチア・イプシロンが売れているのを考えれば、妥当な選択といえよう。
しかしながら、今や世界各地でフィアットといえば500である。どこまでキープコンセプトを図って、どこまで新しくするか。次期モデルのデザイナーたちが今感じているプレッシャーといったら、とてつもないものに違いない。

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フィアット500Cを満載した陸送車。



 

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フィレンツェにて。フィアット500。次期型の姿は如何に。
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witten by Akio Lorenzo OYA
世界中
うんうんする
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文 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA
写真 Akio Lorenzo OYA、IWC SCHAFFHAUSEN

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76年前のスピットファイア機で世界一周飛行を成し遂げたマット・ジョーンズ氏(左)とスティーブ=ボールトビー・ブルックス氏(右)。2019年12月5日、英国グッドウッドにて。(photo=IWC SCHAFFHAUSEN)

自動車イベント「フェスティバル・オブ・スピード」で有名なイングランド南部のグッドウッド飛行場。2019年12月5日、そこに1機の単発機が世界一周を果たして帰還した。

冒険に供されたのは、76年前の1943年に製造されたスピットファイアLF MKⅨ「シルバー・スピットファイア」。計20の国と地域・43,000kmを約4ヶ月かけて飛行した。スポンサーは「スピットファイア」シリーズを展開するスイスの高級時計ブランド「IWCシャフハウゼン」が務めた。

記録達成に長期間を要したのには背景がある。
ひとつは航続距離だ。本来戦闘機ゆえ、長距離用に設計されていない。そのため一回に飛べるのは僅か約750kmに過ぎない。
搭載されたロールス・ロイスV型12気筒エンジンも含め整備インターバルが短いこともその理由だ。そうしたことから経路を細かく分けて駒を進める必要があり、その数は74セクターに達した。

ルートは西廻りが採られた。グリーンランド、北米大陸、極東ロシアを経由。10月には日本に到達したものの台風の影響で、いわて花巻空港に20日間近く待機するという事態にも見舞われた。
しかしその後は順調に台湾、香港、東南アジア諸国、中東を経て、ヨーロッパへと戻ることができた。
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「シルバース・スピットファイア」ことスピットファイアLF MK Ⅸの最高飛行高度は43,000フィート(約13,100メートル)、最高速度は650km/h。

このチャレンジで筆者は2019年8月5日の離陸前、唯一の日本人ジャーナリストとして、他国メディアとともに出発式に立ち会った。
当日は元F1ドライバーで、IWCシャフハウゼンのアンバサダーであるデビッド・クルサードも激励に来場。その華やぐ会場で、交代で操縦桿を握ることになったパイロット2名から話を聞くことができた。

彼らの名は、スティーブ=ボールトビー・ブルックス氏とマット・ジョーンズ氏。いずれも英国人である。ブルックス氏は不動産ビジネスで財を成したが、ヘリコプターの操縦で空の世界に魅せられた。ジョーンズ氏はビジネス機運航に携わっていたが、約10年前グッドウッド飛行場脇にスピットファイア専門操縦スクールをブルックス氏と設立して現在に至っている。

彼らの飛行機に関する語りは、クルマも含め古いマシンに接する者への示唆に富んでいた。以下はその内容である。

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スティーブ=ボールトビー・ブルックス氏は、不動産ビジネスで活躍の傍ら、ヘリコプターで空の冒険を開始。やがてイギリス空軍が誇る歴史的名機の魅力に魅せられ、スピットファイア専門フライトスクールの校長となる。

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マット・ジョーンズ氏。ブルックス氏とともにスクールを通じて、これまで2千人以上にスピットファイア体験を提供してきた。

今回のミッションで注目すべき点は?

ジョーンズ
計画には2年半を要しました。機体入手時は単なるスピットファイア機でしたが、復元が完了した後は4万点のパーツの集合体として私の目に映ったものです。

ブルックス
注目していただきたいのは、シルバー・スピットファイアの高いレストア精度です。機体は8万個のリベットで結合されていますが、復元では1本1本外されてX線でチェックされました。ただし基本的には、製造された1943年の姿と同じです。歴史の一部と飛ぶといって良いでしょう。

ブルックス
この旅の真の主役は私たちではなくスピットファイア機です。 1936年、設計者R.J.ミッチェルは、すべての航空機の頂点を目指し、この機材を開発しました。過去に製造された中で最高の航空機であり、その地位は現在でも同様です。今回の目的は、この素晴らしいマシンをさまざま国で提示することです。ロールス・ロイス製マーリン・エンジンのサウンドを聞きながら、この体験を(人々に)共有してもらえるのです。

ジョーンズ
1943年から1944年にかけて12人がこの機材で飛行していますが、私たちは彼らと同じ感覚を味わえると確信しています。金属に刻まれた歴史は、金銭には代え難い感動をパイロットに与えてくれるのです。

飛行計画に関するエピソードを聞かせてください。

ジョーンズ
ヨーロッパ圏内を飛ぶときは膨大な量の情報と選択肢があります。いっぽうで、天候や滑走路の状態を伝達してくれる管制塔がない区間もあります。400-500マイルの飛行後、あと僅か20マイルに目的地があっても引き返しを迫られるときがあります。また、燃料は最新の旅客機とは大きく異なり、すぐ入手できません。そのため、燃料缶を各寄港地にあらかじめ発送しておく必要がありました。

今回の冒険では、何をもって成功としますか?

 

 

ブルックス
私自身は子供時代、飛行機のコクピットに潜り込んだり、飛行家が大西洋を往来するのを眺めることができました。しかし今日それが容易にできないのは悲しいことです。だから私たちが次代の若い人たちを刺激しなければならないのです。今回のフライトを通じて、何らかの方法でそれができれば、成功だと信じています。

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前夜からの雨に祟られた出発日朝だったが、午後になると太陽が顔を覗かせ、ギャラリーたちを歓喜させた。

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元F1ドライバー、デビッド・クルサード。飛行パイロットとサポートクルーたちにエールを送った。

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2002年映画「007 ダイ・アナザー・デイ」でボンドガールを務めた女優ロザムンド・パイク。

復元とその周期について教えてください。

ジョーンズ
500時間ごとに復元を繰り返す必要があります。製造以来、何回復元されたかは不明なエンジンですが、その都度他の航空機のように全部品が分解され、点検されたことは確かです。最後の修復後、私たちは35時間の試験飛行を行いました。一般的に飛行機という機械は、復元当初はぎこちないのですが、その後うまくいけば信頼性が向上します。そして年を重ねるにつれ、再び信頼性が低くなります。私たちが飛行する期間が、信頼性の高い時期にあたることを願っています。

トラブル発生時の解決策は?

ジョーンズ
スペアのエンジンを用意しました。加えて、すべてのパーツはいつでも発送できる準備を整えました。私たちは規則に従って整備を行う必要があります。点検周期には、毎25時間と毎50時間の2種があります。前者は1人が1日かけて作業します。後者は3人が2日がかりで行います。いずれも作業完了後は、CAA(英国民間航空局)の承認を得なければ飛行できません。整備には、イギリスインチ規格のスパナを揃えて持ってゆきます。

コクピット内の気温は?

ジョーンズ
高度1000フィート(300m)あたり2〜3℃低下します。20,000フィート(6090m)まで上昇すると40℃低下します。つまり地上気温が30℃の場合、上空はマイナス10℃になります。コクピットまで伝わってくるエンジンの熱はありますが、限りなくゼロです。

ブルックス
試験飛行で25,000フィート(7600m)に到達しましたが、これは機体製造時点から考えても最高の高度です。そのときの温度はマイナス22℃でした。

長時間飛行で、体力とメンタル双方を維持するには?

ジョーンズ
自身の限界を理解し、訓練を重ねることです。訓練とは飛行している機材と環境について可能な限り理解すること。自らの限界を受け入れ、それを超えようとしないことです。そして一回一回安全なフライトに集中します。

ブルックス
私はヘリコプター操縦に関しては豊富な経験がありましたが、スピットファイアの操縦を習得するのは極めて困難で、半年を要しました。スピットファイアは空で実にスムーズです。いっぽう飛行場に近づくと、時速210mph(約338km/h)程度の遅い速度でも、突如として忙しくなります。無線交信をし、速度を減少させフラップを下降し、すべてのチェックを行う必要があります。あまりの作業の多さに、私はメンタル的にブロックしてしまったものです。

そうした状況で、先輩たちから学んだのは「時間を稼ぐこと」でした。燃料さえあれば、何でも落ち着いてやり直せるのです。操作する手はゆっくり動かす。コックピット内で自分の手がめまぐるしく動き始めたら、それは落ち着いていない証拠です。どのような速度でも、クールで落ち着いたリズムの動作を維持することが大切です。

ジョーンズ
今日に至った経緯を思い出します。多くの人々が私たちを支え、応援してくれている中で飛ばしていることを意識するのです。同時に、かつてこの飛行機を操縦した誰もが楽しみにしていたであろう「着陸」という行為に思いを馳せます。彼らが家に戻り、家族と再会できたことの重さを、私たちは心に留めなければなりません。

お守りは持参しますか?

 

ジョーンズ
目下のところありませんが、考えておきましょう(笑)!

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ちなみに出発前、飛行場脇で展開されたパーティーでは、懐かしいトラック/バンによる屋台がレトロムードを盛り上げた。これはシトロエン・ティープ(タイプ)H。

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ルノー・エスタフェット。「フェスティバル・オブ・スピード」や「グッドウッド・リバイバル」が催される地ならではのセンスだ。

実をいうと二人に会う前の筆者は、アメリカ大陸横断のカーアクション映画「キャノンボール」に登場するドライバーたちの如く、気風(きっぷ)ばかりが先走る冒険野郎を想像していた。もしくは逆に、緊張に支配されてナーヴァスになった男たちだった。

しかし、実際の彼らは飛行直前にもかかわらず冷静であるばかりか、笑みを絶やさなかった。

「自らの限界を受け入れ、それを超えようとしない」「何でも落ち着いてやり直すことができる」「操作する手はゆっくり動かす」…繰り返しになるが、それらはいずれも、クルマやモノと接するときに作法といえる。

 

いっぽう筆者といえば日ごろ運転中、助手席の女房から「ここに止まれ」「そこを曲がれ」とった突然命令が飛ぶたび、「制動距離というものがあるのだよ!」「直角に曲がれるクルマは無い!」と逆上するとともに、動揺してステアリングやスイッチを操っている。ここは少し、2名のパイロットを見習わなければならない。

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特徴的な楕円翼型を見せながら、同型機とともに飛行するシルバー・スピットファイア。
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「シトロエンのメガネ」大ヒット

「シートロエンseetroën」とは、シトロエンが販売しているリラクゼーション用アイウェアである。円形フレームの下半分に入った青い液体が、装着している人の平衡感覚維持を助ける。

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絶賛発売中のリラクゼーション用アイウェア「シートロエン」を試す筆者。2018年パリ・モーターショーで。



もともとフランス南東部のスタートアップ企業が開発した製品で、乗り物酔いに悩まされていた人の間で話題となった。
シトロエン・ブランドで販売するにあたり、パリのデザイン事務所がリファイン。2018年7月にヨーロッパでリリースすると、初期分1万5千個がたった3日で売り切れてしまった。
日本でもプジョー・シトロエン・ジャポンが2019年6月に導入したところ、たちまち完売御礼になり、再入荷した後もまた売り切れた。

振り返れば、ヨーロッパの自動車メーカーは1990年代から、自らのブランドを冠したマウンテンバイクやファッション、ステーショナリーといったコレクションに力を入れてきた。そうしたなかでもシートロエンは、記録的ヒットといえよう。

そこで今回は、自動車ブランドが手がけてきた「クルマ以外のプロダクト」の歴史である。

フィアットの冷蔵庫

そうした商品は、「草創期型」「拡張型」「福利厚生型」そして「耐乏型」に分類できると筆者は考える。

「草創期型」とは自動車産業進出以前に、生業としていた分野である。
トヨタやスズキの織機、マツダのコルク栓に相当する。
ヨーロッパの自動車メーカーで最も良い例は、今日まで続くプジョーのコーヒーミルだ。もともと鋼(はがね)の製造を得意とした同社が、1840年に作り始めたものである。ダイムラーのライセンスで自動車の製造を開始したのは1890年だから、半世紀早いプロダクトということになる。

フランスにはそうしたミルの歴史を知り、コレクションする愛好家が少なくない。

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筆者の知人でパリ在住のディディエ氏もプジョー製コーヒーミルのコレクターである。


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同じプジョーの壁掛け式コーヒーミル。

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イタリアの知人から、何かの機会にもらったマイナスドライバー。これも往年のプジョー・グループの製品である。

「拡張型」とは業務拡張期の製品を指す。
フィアットは1899年の創立以来、さまざまな分野の製品を手掛けてきた。それを象徴するのは、1935年から使われ始めたスローガン「terra, mare,cielo(陸・海・空)」だ。

それ以前の1917年には、鉄道車両の製造に進出。部門は2000年にアルストム社に売却されるまで存在した。ちなみに、我が家があるシエナとフィレンツェを結ぶ非電化区間には、1980年代に造られたフィアット製ディーゼルカーが今も現役で走っている。

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フィアット製ALn668 3100系気動車。シエナ駅にて。

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フィアット製気動車のプレートには、懐かしいFIATロゴが。

そのフィアットは、1938年から米国ウェスティングハウス社のライセンスを取得して家電も生産していた。第二次大戦後の経済成長期には、フィアット製冷蔵庫や洗濯機は豊かな暮らしのシンボルとしてもてはやされた。
今日でもコレクターズアイテムとして保管され、ときにはこれまた現役で「フィアットの冷蔵庫」が使われているのは、イタリアが輝いていた時代のシンボルであるからにほかならない。

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フィアット製冷蔵庫。赤いバッジは後付である。トリノ・リンゴットの食堂「オステリアF.I.A.T.」にて。

イタリアを代表する自動車部品サプライヤーだった旧マニエッティ・マレリも、クルマ関係以外のものを手掛けていた。
1891年に歴史を遡り、1919年からはフィアット用電装部品を製造を開始した同社だが、1930年には「ラジオマレリ」の商標で家庭用ラジオ製造に進出している。戦後はテレビやオーディオにまでラインナップを広げたが、本業である自動車電装に注力すべく、1975年をもって撤退している。参考までにマニエッティ・マレリは2018年、FCA(フィアット・クライスラー・オートモビルズ)の傘下を離れ、カルソニックカンセイと経営統合。2019年10月にマレリと社名を改めた。

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ラジオマレリによる往年のプロダクトが、青空骨董市で売られていた。シエナにて。

ソーセージにパーツコード

「福利厚生型」とは、本来社員用に開発された製品だ。たとえばダイムラー社は1905年頃、炭酸水、レモネードそしてラスベリードリンクを毎日5〜6千本供給していた。従業員のワイン飲みすぎを防止するためだったという。収益は従業員向け基金に充当されていた。

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ダイムラーの従業員用レモネード瓶。1905年頃のもの。シュトゥットガルトのメルセデス・ベンツ博物館蔵。

いっぽう今日まで続く好例といえば、「フォルクスワーゲン(VW)のカリーヴルスト用ソーセージ&ケチャップ」であろう。
Currywurstとは原則として、輪切りソーセージにカレーパウダーとケチャップをかけて食べるファストフードである。
1974年、VWはウォルフスブルク本社工場敷地内に、社員食堂での朝食および昼食用ソーセージ工場を開設している。なお、ソーセージには「199 398 500 A」という、他のVW部品と共通様式のパーツコードが割り当てられている。2010年からはベジタリアン向けも加えられた。

VWケチャップは、そのソーセージ用として誕生したものだ。製造は食品メーカー「クラフト」が担当している。その酸味の効いた独特の味は、ふと懐かしくなる。このあたりが長続きの秘密かもしれない。

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VWのケチャップのクラシック・バージョン。ラベル下部には「そして、うまい」が3回も繰り返されている。

双方を用いた「VWのカリーヴルスト」は、毎年春ドイツのエッセンで開催される「テヒノクラシカ」をはじめとする自動車イベントでも、たびたび供されて大人気だ。

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VWのカリーヴルストは、屋内会場で展開されるときも大人気。2011年テヒノクラシカにて。



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フォルクスワーゲン(VW)のクラシック部門によるカリーヴルスト屋台。2012年ドイツ・エッセンのヒストリックカー・イベント「テヒノクラシカ」で。

台所に映える3連メーター

最後の「耐乏型」とは、第二次大戦直後、自動車以外の活路を模索したものである。その究極は、ごく少数製造されたとされる「アルファ・ロメオのオーブン」であろう。

熱源はガスと電気。イタリアでは今日でも薪式のオーブンが各地で使われていることを考えると、当時極めて先進的かつ高価だったに違いない。細部のフィニッシュからは、戦前に超高級車メーカーであったアルファ・ロメオのプライドが感じられる。3連メーターも自動車を想起させる。
航空機産業だったピアッジョは1946年にスクーター「ベスパ」で、民生産業への転換に成功した。アルファ・ロメオも、オーブンで成功していたら、またブランド初の普及モデルである1950年「1900」が失敗していたら、日本の「リンナイ」「パロマ」のようなメーカーになっていたかもしれない。

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イタリア・ミラノ郊外アレーゼのアルファ・ロメオ博物館が所蔵する同社製オーブン。

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アルファ・ロメオ製オーブンのクローズアップ。3連メーターは左から温度、 各機能の作動状況、タイマー。

冒頭に話を戻せば、シトロエンがこれを機会に、メガネのメーカーになってしまうことは考えられない。しかし、ダイムラーのスマートがEV専用ブランドにシフトしようとしている昨今である。気がつけば、一部のメーカーがシェア&自動運転EV用ブランドに変貌し、「昔はあのクルマ、自分で持ってたんだぜ」などと自慢すると、若者にホラ吹き男扱いされる時代がやってくるかもしれない。
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Akio Lorenzo OYA
大矢アキオ ロレンツォAkio Lorenzo OYA在イタリアジャーナリスト/コラムニスト/自動車史家。音大でヴァイオリンを専攻。日本の大学院で比較芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。自動車誌...
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