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独特の目線でイタリア・フランスに関する出来事、物事を綴る人気コーナー
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文 大矢アキオ ロレンツォ Akio Lorenzo OYA

写真 大矢麻里 Mari OYAAkio Lorenzo OYA

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イタリア中部シエナ県の古い修理工場で。「フィアット124」のリアフェンダーと、奥の壁面にはマニエッティ・マレリのサインが。

 

■花をしおれさせてしまったような

「マニエッティ・マレリ」といえば、イタリア車愛好家にとって懐かしい電装品ブランドであろう。いっぽう近年「マレリ」というと、日本では「経営再建中の」という“枕詞”がついて報道されることが多かったのも、これまた事実だ。

 

おさらいしておくと、マニエッティ・マレリの始まりは1919年にまでさかのぼる。当初の製品は点火プラグへの電源供給装置として永久磁石を使用したマグネトー式発電機で、創業者エルコレ・マレリとフィアットの折半出資だった。本稿の話題である伝統的ロゴの原型も、同年に制定されている。社業は順調に発展。1970年代から90年代初頭のフォーミュラ1にはチームのスポンサーとして積極的に関与した。そのため今もノーズにMagneti Marelliのサインが記されたマシンを記憶しているファンは少なくない。


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1992年のフォーミュラ1「ダラーラF192」の鼻先にも、マニエッティ・マレリのロゴが記されていた。202510月、古典車ショー「アウト・エ・モト・デポカ」の企画展で。

コモンレール式ディーゼル燃料噴射やアルファ・ロメオのセミ・オートマチック変速機「セレスピード」の開発にも大きく貢献した。

 

やがて2018年、フィアット・ブランドを要するFCA(現ステランティス)はマニエッティ・マレリの全保有株を投資ファンドCKホールディングスに売却。同ホールディングスは、先に自社が保有していた旧日産系のカルソニックカンセイ統合し、翌2019年にマレリと社名を変えた。

 

しかしその後、主要取引先であったステランティスや日産の経営不振により、持株会社であるマレリホールディングスの経営環境が悪化した。イタリア国内工場でも従業員の一時帰休に端を発する労働争議が頻発するようになった。とくに1970年にマニエッティ・マレリが買収したキャブレター会社ウエバーの生産拠点であったボローニャ工場における争議は2025年現在も続いている。


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マレリのイタリア国内生産拠点のひとつ、ボローニャ工場。元ウエバーの生産拠点であった。

 

2022年、東京地裁に民事再生法の適用を申請したのに続き、2025年には米国デラウェア州で連邦破産法第11(チャプター11)の適用を申請。ドイツ銀行などの貸付機関グループのもとで再建が決定して現在に至っている。

 

202511月にはインド南部に新研究開発拠点を開設という、久々に明るいニュースが伝えられた。だが、市場的にも地政学的にもダイナミックに変化する近年の自動車業界ゆえ予断は許されない。

 

イタリアの自動車関係者がマニエッティ・マレリの現況を知っているか?というと、“フィアット”の手を離れたことはある程度知られている。だが、投資ファンドが介在したこともあり、最終的に日本を本拠とする企業に渡ったことを知る人は限られている。一般人の間ではなおさらだ。

それでも、車体や修理工場に古いマニエッティ・マレリのロゴが誇らしげに掲げられているのを目にするたび、日本にゆかりある筆者は、もらった花をしおれさせてしまったようで後ろめたくなっていた。

 

同時にいえるのは、日本のメディアがマレリの経営状況を伝えるときは、マレリと社名を変えたときに制定された大きなMの字の新ロゴばかりが映し出されることだ。あの伝統的ロゴは、イタリアでもフェードアウトしてゆくのだろうか?

 

■健在を確認

そのような思いをめぐらせていた折、DIYセンターなどで懐かしいマニエッティ・マレリのロゴ入バッテリーを見かける機会があった。メガサプライヤーゆえ、こうしたアフターマーケット品は、とうの昔に手掛けなくなっていたのかと信じていた筆者としては意外だった。

 

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マニエッティ・マレリのバッテリー。シエナ県のDIYセンターで2025年撮影。

 

店頭に並んでいる商品のラベルをもとに調べてみると、コルツァーニという企業が浮上した。マレリのアフターパーツ部門であるマニエッティ・マレリ・アフターマーケット(現マニエッティ・マレリ・パーツ&サービシーズ)は、イタリアの大手自動車部品卸売業コルツァーニ社とバッテリーの独占販売契約を締結していた。調印は2016年だから、マニエッティ・マレリが旧FCAのグループ企業だった最後の時期である。


今日では、バッテリーだけでなく、モーターオイル、添加剤、灯火用バルブ、そしてワイパーブレードといった製品をコルツァーニと展開している。

 

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このモーターオイルもコルツァーニ社とのプロデュースである。2025年撮影。

 

ついでに記せば、マニエッティ・マレリ・パーツ&サービシーズは、今日でも最盛期の生産拠点であったミラノ郊外コルベッタに本社を置いている。そしてアフターパーツのほか、認定修理工場ネットワーク用の計測・検査機器も展開している。

 

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DIYセンターで。このように他ブランドのバッテリーや商品と並べられて売られていることも。2024年5月。


それらの領域で使用しているのは、コルツァーニとのコラボレーションと同じ、マニエッティ・マレリというフルネームと旧ロゴだ。少なくとも伝統は生きていた。筆者のマレリに対する例の後めたさも、やや収まったのである。

 

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ある刃物研ぎ屋さん。店舗ロゴを考えた人の頭には、きっとマニエッティ・マレリのロゴがあったに違いない。202511月、シエナ県で。


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文 大矢アキオ ロレンツォ Akio Lorenzo OYA

写真 大矢麻里 Mari OYAAkio Lorenzo OYA/ステランティス

 

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プジョー206シリーズの3台並びを発見。2025年夏。

 

■馬小屋にもスッポリ

イタリア自動車クラブ(ACI)2025年データによると、この国で使われている乗用車の平均車齢は13年である。日本における乗用車の平均使用年数である13.42(2023年。データ出典JAMA)に近い。国内の北部では近い将来、欧州排出ガス基準「ユーロ6」に準拠した車両でないと進入できない都市が増加する。したがって、買い替えのペースはそれなりに進むと思われる。そうした状況にもかかわらず、いまだ頻繁に目にするモデルといえば、「プジョー206」である。

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シエナ旧市街、中世の市壁そばで。2022年春。


イタリアとプジョーの歴史は長い。19世紀末、まだ量産自動車産業が根づく前のイタリアで、プジョーは最初に輸入された外国車のひとつであった。第二次世界大戦後も比較的手頃なブランドとして市場に受容された。そうしたことから今日でも、イタリア人の間では日本でいう輸入車のステイタス感は希薄であり、フィアット、ルノーなどと並ぶポピュラーカーのいち選択肢である。20251月から9月のブランド別登録台数では、フィアット、トヨタ、フォルクスワーゲン、ダチアに次ぐ5位(62,155)と記せば、その普及ぶりがおわかりいただけるだろう。


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シエナ旧市街「教皇のロッジア」近くに佇んでいた206プリュス。2024年春。
 

206について駆け足でおさらいしておくと、そのデビューは1998年9月である。位置づけとしては205の後継車であった。ブランドの故郷フランスにおける2工場(ポワシーおよびミュールーズ)も含む世界各地の13生産拠点で生産・組み立てが行われ、3ドアおよび5ドア・ハッチバックのほか、クーペ・カブリオレのCC、ステーションワゴンのSW、商用車版、さらに地域によっては3ボックス版までつくられた。プジョーはこのモデルの拡販に相当力を入れていたようで、写真で紹介するCMは大きな話題を呼んだ。そして2006年に207が発表されたあとも、206(プリュス)と名前を変え、2012年までカタログに載り続けた。


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206プリュス。ヘッドライトを含め、フロントまわりは後継車である207の意匠に近づけられている。(photo:Stellantis)


イタリアでは35万台以上の206が売れた。人気の理由は、その引き締まったスタイルと同時に、車体寸法にもあった。ハッチバック版の全長3822mm✕全幅1652mmは、後継車207よりも208mm短く96mm狭い。それはイタリアの歴史的旧市街にあるような間口が狭く、奥行きも限られたガレージにも、もってこいだった。好例は、筆者の知人のエレベーター保守・点検業経営者である。彼は元・駅馬車用の厩舎だったという車庫にすっぽり入れられるという理由で、206の商用車版をサービスカーに選んだ。7万キロも無故障で走ったあとセールスパーソンから207を勧められても、「車庫に入らない」という理由で、ふたたび206(正確には206)を購入した。


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今見ても、小股の切れ上がった良いデザインである。2025年夏撮影。


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2002年のディーゼル仕様。2019年秋。


■異国の生活応援モデル?

生産終了から2025年で13年。それでもインターネット上を閲覧すると、206の愛好会やフォーラムがすぐに見つかり、活発な活動ぶりがうかがえる。

念のため、欧州の著名中古車検索サイト「アウトスカウト24」で206の在庫を調べると、イタリア国内には本稿執筆時点で277台がイタリア国内で売りに出されていることがわかった。2002年・走行31km500ユーロ(約8万8千円)といった激安ものも見られるいっぽうで、2000年・走行9万8千kmWRCリミテッド・エディションは18,500ユーロ(326万円)の値札が付いている。走り屋系の熱い支持がうかがえる。ノーマル仕様でも低走行距離もの(5万7千km)だと12,950ユーロ(228万円)の値段がついている。年式は2006年。19年ものである。もしくはあと3000ユーロ(52万円)出せば新車の3代めフィアット・パンダが買えることを考えると、かなり強気の値づけといえる。


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スチールホイール仕様であるが、ホイールカバーのデザインの妙で、それほどプア感を感じさせない。2025年夏。


206
といえば、ここ数年イタリアの町村部で興味深い現象がみられる。外国人労働者、とくに西アフリカ系の人々が暮らすエリアで206を頻繁に見かけるのだ。なぜかといえば、やはり彼らの出身国があろう。たとえばセネガルは1960年までフランス領であった。アフリカにおけるフランスの旧植民地ではプジョーが一般的である国が少なくない。ナイジェリアでは1970年代からプジョーの現地組立が行われていた。
 

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ある解体工場で見つけた206CC。普及車種だけに、格安パーツが容易なのも206の長所だ。


コンディションからして、彼らが乗る206の大半は、前述した中古車のなかでは手頃な価格の部類のものに違いない。なぜなら仲間とともに押し掛けをしたり、フロントフードを開けて、ああだこうだ言いながら修理している光景をよく目にするからだ。それでもしばらくすると彼らの姿は消えている。救援の陸送車が来た形跡もないから、そのたびちゃんと動いているのだろう。エンジンルームに容易に手を突っ込めないクルマが増えている昨今、アマチュア修理でもなんとかなってしまうところも206の長所なのだ。

 

異国で一生懸命働いている人たちの望郷&生活応援ヴィークルも、206の新たな役目なのである。 


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フィレンツェ旧市街で信号待ちをする206CC。2025年10月撮影。

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2002年にイタリアのチームによって制作されたCM206に憧れたインドの若者が、(ヒンドゥスタン・アンバサダー改と思われる)古いクルマの後部をぶつけて2ボックスにし… (photo:Stellantis)

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ゾウに踏ませてフロントノーズを低くし… (photo:Stellantis)

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渾身の溶接作業で206風のクルマ完成。(photo:Stellantis)

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夜の街を仲間と流す。 この作品はカンヌ広告祭でグランプリを受賞した。 (photo:Stellantis) 


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文 大矢アキオ ロレンツォ Akio Lorenzo OYA

写真 大矢麻里 Mari OYAAkio Lorenzo OYA

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202476日、イタリア中部シエナ県で開催された「レジェンダリー・インターナショナルVWミーティング」で。

 

■イタリアでも熱い!

今回は、イタリアにおける空冷フォルクスワーゲン(VW)ファンたちのお話である。

 

202574日から6日、中部トスカーナ州スタッジャ・セネーゼで「レジェンダリー・インターナショナルVWミーティング」が開催された。主催は空冷系VWのファンクラブ「マッジョリーノ友の会」だ。イベントは今回で第39回。彼らによれば、イタリアで最も長く続いているVW系イベントである。Maggiolinoとは昆虫のコフキコガネを指す。英語のbeetle(カブトムシ)とは異なるが、イタリアでは長年にわたってVWビートルの愛称である。主要スポンサーは、イタリアを代表する空冷VWのパーツショップのひとつ「デイ・ケーファーサービス」が務めている。

 

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76日午前11時過ぎ、カステッリーナ・イン・キャンティのワイナリー「ラ・クローチェ」に続々と到着した参加車たち。

 

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オリーブ畑の小径を行く1303カブリオレ(手前)

 

イタリアとVWのつながりは意外に深い。その販売開始は第二次大戦終戦から6年後の1951年である。友の会のカミッロ・クローチ会長が以前筆者に語ったところによると、当初ビートルをはじめとするVW車は第二次大戦中のドイツに対するネガティヴな印象もあって、即座にヒットとはならなかった。しかしイタリア製大衆車に少し予算を上乗せするだけで、きわめて良好な品質の製品を手に入れられることから、次第に支持するユーザーが増えていった、と振り返る。2025年のイタリアにおける新車登録台数は121288台で、ブランド別ではフィアット、トヨタに次ぐ3位である。

 

ミーティングに参加できるのは空冷系VWとそのバリエーションだが、「T4」「ニュービートル」および「ザ・ビートル」も認められている。

 

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「デューン・バギー」など、さまざまなバリエーションも参加歓迎だ。ウィンドウには「NO DUNE BUGGY NO PARTY」という陽気なモットーが。

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往年のオフロード・レースにおける強者「バハ・バグ」も。

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ピットストップの場所となったワイナリー「ラ・クローチェ」で。創業3代目のシルヴィオ・ザーリさん。https://lacrocezari.it

 

主催者によると2025年大会の参加台数は158を記録。イタリア国内だけでなくスウェーデン、ベルギー、ドイツなどからの遠来組もあった。

 

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ドイツから遠来した1956年式ビートル。

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往年の感覚溢れるインテリア。おきまりの花瓶もしっかり装着されている。

 

例年どおりベースとなった町内のスポーツ施設には仮設キャンプ場が設置され、夜にはライブ演奏も行われた。また、郊外へのドライブツアーも土日両日に企画された。日曜日はキャンティ地方のツーリング。昼前の小休止スポットであるキャンティ・クラシコのワイナリー「ラ・クローチェ」で筆者が待っていると、参加車たちは空冷エンジンサウンドを周囲の山々に響かせながら次々と姿を現した。そしてさまざまなオーナーが、愛車とのつながりを熱く語ってくれた。

 

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好コンディションの「T1」キャンパー仕様。

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T2」。

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T2のピックアップ仕様。

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後席にも乗員かと思いきやビートルには、こうしたジョークが似合う。

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キャンティのワイナリーを背景に。

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トランスポーター・シリーズ史上最後に空冷エンジンが搭載された「T3」。そのウェストファリア製キャンパー仕様である。

 

■過激チューン派・スパルタン派

デニス・ザノンさんは、息子のアレッシオ君と300km離れた北部の都市ヴィチェンツァからやってきた。

 

ベースは1970年「1302LS」。ただしエンジンは「ポルシェ914」用の2リッターを2400ccに拡大・換装したものだ。「44mmキャブレター2基、可変タイミングのカムシャフト、そしてCBパフォーマンス製のコンロッドも装着しています」と説明する。それらのおかげで最高出力は約180馬力に達するという。もちろんイタリアで公道走行のホモロゲーションを取得済だ。

 

ホイールは専門業者とともに製作したというポルシェ風17インチホイール、ディスクブレーキは、これまたポルシェの944のものという。

 

アレッシオ君も手慣れた所作でビートルに接している。クルマを通じた父子水入らずの光景が微笑ましかった。「最高速度ははっきり分かりませんが、200220km/hになると思われます」とデニスさんは語る。たとえ推定でも夢が見られるクルマは素晴らしい。

 

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デニス・ザノンさんと息子のアレッシオ君、そして彼らの1970年「1302LS」改。

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ドアを開けた途端、鮮やかなスパルコ製レーシング・シートが目に飛び込んだ。

 

次に声をかけたのは、繊維産業で有名なプラトから参加したジェラルドさんである。愛車は「181」だ。第二次世界大戦中のキューベルワーゲンを祖先とし、軍用兼民間用として開発されたコンバーティブルである。

 

25年前に買って、すべて自力でリビルトしました。今は完璧な状態です」とジェラルドさんは胸を張る。181の長所は?との質問に、「滅多に故障しないことです!」と力強く答えた。

3.5リッターV8エンジン搭載の1980年レンジローバーとの2台持ち。質実剛健なクルマが大好きと自認する。

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ジェラルドさんと181

 

■モーターショーでは味わえない“温度”

その場で唯一だった「カルマン・ギア」のオーナーは、ローマ在住のマッシモ・ファラスカさんである。「1963年式です。空気力学的にビートルより優れているおかげで、最高速度は約120km/hに達し、走行安定性も良好です」と美点を語る。唯一の欠点は、旅の際に荷物スペースが小さいことと指摘する。

 

なぜVWに関心を抱いたのか?との質問にマッシモさんは「祖父がローマでガレージを営んでいて、VWはいつも身近な存在でした」と答える。さらに「兄がヴォルフスブルクのVW本社でデザイナーを務めていましたから」と説明してくれた。ちなみに兄の名前はロベルト・ファラスカ氏。VW10年在籍したあとフランスのニースにあるトヨタのデザイン拠点ED2に移籍。シニア・デザイナーとして初代「C-HR」の開発に携わっている。

 

マッシモさんは語る。「このカルマン・ギアは5年ほど前にヴェローナで発見しました。購入を決心したきっかけは、むかし祖父が働いていたガレージにあったクルマであることが偶然にも判明したためでした。引き取りは兄と一緒に行きました」

目下マッシモさんの宿題は、トランスポーター・ファン垂涎の的である23枚窓の「T1サンバ・バス」のレストアだ。

 

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マッシモさん() とエプティサムさん()1963年カルマン・ギア。

 

いっぽうステファノさんは近隣の町ポッジボンシから仲間とともに参加した。6ボルト仕様の1968年ビートルだ。イタリアにおける結婚式用車の飾りつけが施されているので、どこかに新婚カップルがいるのか?と聞くと、「いやいや。去年友達の結婚式に貸し出して以来、そのままにしておいたんだ」と事情を説明してくれた。

 

愛車のニックネームは“ダンテ”という。イタリアを代表する詩人ダンテ・アリギエーリにちなんだかと思いきや、祖父の名前だという。「彼がこれと同じ車を大切にしていたんだ」。10年前インターネットで同型車が隣町フィレンツェで売り出されているのを発見。「わずか15分で購入を決めたよ!」と振り返る。

 

「夏は車内がちょっと暑いけど」とステファノさんは正直に明かすが、前述の181オーナー、ジェラルドさん同様「とても頑丈だ。立ち往生とは無縁だね」と語る。

 

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ステファノさん()は仲間のルカさん&ディミトリさんと参加。リボンは結婚式に貸し出したときのもの。

 

渾身のチューンアップ、レストアの成果、家族の思い出。どのクルマにも、モーターショーでは味わえない人のぬくもりが宿っていた。その週末集まったビートルたちは、ただのヒストリックカーではなく、「物語を乗せて走るタイムカプセル」だったのだ。2026年、イベントは第40回の節目を迎える。ふたたび、どのようなパッションを抱いたファンと出会えるのか、今から楽しみである。

 

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最後尾は友の会で副会長を務めるアルベルトさんの愛車。リアウィンドウには「古いVWは不死身です」の文字が。



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文と写真 大矢アキオ ロレンツォ Akio Lorenzo OYA

 

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202410月、ボローニャの「アウトモト・デポカ」ショーで。アジップ系ガソリンスタンド詰め所のレプリカを発見。手前のクルマはアルファ・ロメオ・ジュリエッタ・スプリント・スペチアーレ。

 

■ギャレー備品をクルマ好きテイストに

 欧州のヒストリックカー・イベントを渡り歩いていると、自動車以外にもそそられるものがあり、思わず足を止めてしまうことが多々ある。今回は、その中から2つを紹介しよう。

 

最初は、フランス・パリのヒストリックカー・ショー「レトロモビル2024」で発見したものだ。店名を「カストミーズ・エア」という。フランス北東部マルヌ県の町タイシーを本拠としている。「エア」の名前がイメージさせるとおり、彼らが得意としているのは、民間航空機のギャレー用アルミ製搬入カート(ミールカート)のモディファイである。日本の航空会社でもときおり放出している中古品と異なるのは、自動車好きに焦点を合わせてカスタマイズしていることだ。自動車ブランドやF1チームを想起させるもの、自動車が登場する映画をイメージしたもの、と数々ある。

 

同様にギャレーで使われる小さなコンテナは、上部にクッションを追加してスツールにモディファイされている。カートは1890ユーロ(308千円)、コンテナは590ユーロ(96千円)である。個体によっては、オランダ「トランサヴィア」など、現役時代に使われていた航空会社名が残っている。各部に残る擦りキズ、凹みそして汚れは、リモワのアルミ製スーツケース同様、これまでアイテムがたどってきた旅にイメージを馳せるため、と受け取るのが正しいだろう。

 

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「カストミーズ・エア」は飛行機のギャレー用搬入カートやコンテナのカスタマイズを専門としている。

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2024年パリ・レトロモビルで。多くの来場者が足をとめ、興味深げに観察していた。

 

■道端給油所はいかが?

もうひとつは、ボローニャで毎年秋に開催される「アウトモト・デポカ」で、2023年・2024年と出展され、注目を浴びていたものだ。ずばり「ガソリンスタンド」である。

 

従来から、古い給油ポンプや石油ブランドの看板は、長年コレクターズアイテムとして愛好家の間で取引されてきた。いっぽう、そこでの展示物は、かつて欧州各地の道端に存在した給油所の、スタッフ詰め所だ。

 

手掛けているのはアーサー・ピスカニック氏と、彼がオーストリアで主宰する「アルテタンケ(古いスタンド)」である。1967年生まれの彼は、25年間古いクルマを手掛けるうち、約10年前にこのアイディアを実行に移した。欧州各地で、使わなくなったスタンド詰め所を発掘して販売している。2023年のアウトモトデポカに展示した建屋は「実際にFINA(フィーナ)の給油所として、オランダで使われていたものです」とアーサー氏は説明する。

 

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2023年ボローニャ「アウトモト・デポカ」で。まずはアジップ・カラーに塗装された、この1958年フィアット682Nタンクローリーが目に飛び込んだ。イタリア「マラッツァート財団」のコレクションである。

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その脇には、アーサー・ピスカニック氏と彼の屋外ブースが。

 

レストアのかたわらで、1930年代から70年代までのレプリカ建屋もプロデュースしている。1930年代は角形、50-70年代はオーバル型が基本だ。冒頭写真のアジップのスタンドは、彼が手掛けたレプリカの一例である。周辺に同じくアンティークの給油機やオイル缶などさまざまなアクセサリーを散りばめることで、さらに雰囲気を盛り上げることができる。そうしたセットは、各地の博物館やイベントなどに販売もしくはレンタルされ、展示車や参加車の引き立て役として活用されているという。

 

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左はFINAのオイル缶。往年の同社によるモットー「tanken, fahren, loben(給油して、運転して絶賛)」が印刷されている。右はボッシュ製スパークプラグの販売用ラック。

 

■黒電話に「あの灰皿」も

今回紹介したものに、なぜ心動かされるのかを自分なりに分析してみた。航空機用カートやコンテナに関していえば、飛行機が高価な移動手段だった頃への郷愁を否定することはできない。だが同時に、さまざまなユニット機器が面一に収まるものに惹かれた時代への懐旧とも筆者は分析する。旅客機内のギャレーに整然と収まるカートやコンテナは、ラックにマウントされたコンポーネントステレオ、初期のデジタルシンセサイザーが全盛だった1970年代を彷彿とさせるのである。

 

同様にアーサー氏のガソリンスタンドも70年代にタイムスリップさせてくれる。日本の給油所のサービスルームは詰め所型よりもう少し大きかった。しかし独特の雰囲気があったものだ。薄っぺらい座布団が敷かれたパイプ椅子の向かいにレースのカバーがかかったソファ。その傍らでは8トラックの演歌テープがプロドライバー向けに売られていた。マガジンラックには提携している自動車販売店が置いていった、初代トヨペット・コロナ・マークⅡのカタログがしわくちゃになって挿してあった。そしてテーブル上には、当時カーライフ産業のおきまりであった、タイヤをかたどった灰皿が置かれていた。いずれもたわいものない事象であるが、今のスタンドより大人の香りがして、いつか自分も運転免許を取得したら、客になりたいと思ったものだ。

 

筆者が心ときめいたのと同じノスタルジーを、ここ欧州の人々も胸に秘めていたのかと思うと、妙に嬉しくなるのである。それを証明するように、アーサー氏のスタンド内の机には、しっかりとタイヤ型灰皿が置いてあったのだった。

 

Customi’s air

https://www.customis-air.fr/

Alte Tanke

https://www.alte-tanke.com/

 

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オランダで発見したというFINAのスタンド詰め所。

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詰め所の内部。黒電話、オリジナル道路地図、タイヤ型灰皿といった小道具も情緒あふれる。


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文と写真 大矢アキオ ロレンツォ Akio Lorenzo OYA

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イタリア中部ポッジボンシの「デ・マルコ・パーツ」で。202412月、廃業ディーラーから入手した品の中には、看板も含まれていた。左からマッシモ社長、スタッフのミンモ、アッティリオ、クリスティーナ、ラミン各氏

 

■その量、トラック2台分

「大収穫があったから見に来なよ」。そう声をかけてくれたのは、開店間もなくから筆者が本欄で追ってきたフランス車パーツショップの社長、マッシモ・デ・マルコさんである。2024年暮れのことだ。彼がイタリア中部トスカーナ州ポッジボンシで営む「デ・マルコ・パーツ」については第19https://carcle.jp/UserBlogComment?UserID=10568&ArticleNo=19

を、彼がオーガナイズする「イタリアン・ルノー4フェスティバル」については、第31https://carcle.jp/UserBlogComment?UserID=10568&ArticleNo=31
を参照いただきたい。

 

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デ・マルコ・パーツの本社入口。2019年創業の当初から通販にも力を入れており、すでに50以上の国と地域に発送してきた。

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倉庫の一角にはルノー「4」の未再生ボディも数々。手前の黄色い個体は、フィレンツェで見つかったという希少な3段変速仕様である。

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マッシモ・デ・マルコ社長。とりわけルノー4、「シトロエン2CV」、そして「フォルクスワーゲン初代ビートル」の部品に関しては、多くの顧客を獲得している。

 

翌日さっそく店を訪ねてみると、開業以来いつも気持良いくらい整然としていた倉庫内に、溢れんばかりのパーツが積まれている。それらはサービスフロントまで達している。一見の客は、どこが窓口かわからない状態だ。ただ事でない。

 

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サービスフロントを塞がんばかりに積まれたルノーのパーツ。

 

「すべてはルノーのNOS、それも純正部品だよ」と、マッシモさんは教えてくれた。NOSとは、New Old Stock=新古在庫のことだ。きっかけは、1カ月前に受け取った1本の連絡だったという。「相手は320キロメートル離れた北部の町、ロヴェレートにある元ルノーの販売店だった」。その店は、遠く1960年代から地域ディーラーだったが、少し前に権利を返上した。「その機会に、指定サービス工場にあった約半世紀分の部品ストックをまとめて売りに出したんだよ」。それをマッシモさんの店は、まるごと買い取ったというわけだった。ちなみにマッシモさんによると、同様の申し出は近年、イタリア全国の新車販売店からたびたび寄せられていたという。新車販売の低迷を背景に、廃業する販売店が多いためだ。

 

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スタッフのミンモさんと、方向指示器レバーを確認する。彼らの右に並ぶ部品棚も、すべて今回引き取ったものだ。

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部品棚の引き出し。マッシモさんも11段はまだ確認してない。そのひとつを開けると

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シャフトのシールが入っていた。

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こちらはクラッチ部品。

 

商談成立後、マッシモさんはトラック2台を連ねて現地に向かった。積載にも丸2日を要したという。

「ルノーに関していえば、純正パーツは社外品よりも格段に品質がいい。だから、絶好のチャンスだった」とマッシモさん。またルノー「25」のテールランプユニットを見せながら、「こうした上級モデルの部品は絶版になりやすい。だから貴重なんだよ」と語る。補足すれば、ルノー「4」など人気車は、今日でも数々のサードパーティーによってアフターパーツが多数製造されている。対して高級モデルは生産台数が少ないうえ人気が限定的なため、社外品が限られている。残存純正品だけが頼りという部品が多いのだ。

 

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オイルパン用ガスケット。

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コンタクトブレーカー・ポイント・コンデンサーセット。マッシモさんによると、数社製が存在した。これはマニェッティ・マレッリ製。

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ルノー「6」の燃料計もあった。

 

■整理には要3年

旧オーナーのもと、長年サービス工場で使われていた灰色のスチール製部品棚も引き取った。1段ごとに手書きで几帳面に記された部品番号は、あたかも昨日まで使われていたような雰囲気を匂わせている。いっぽうで、長身のマッシモさんでも腰の丈ほどある木箱には、頂上から底までぎっしりと部品が詰め込まれている。まだ何が入っているか、彼さえもわからない。

 

各部品を見ていると、どのモデル用かを言い当てるのを競うクイズができそうだ。ただし、そう言う筆者がわかったのは、恥ずかしながら前述のルノー25用テールランプと初代「エスパス」のテールゲートだけだった。

 

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ルノーの部品番号も貼られたクライスラー純正「MOPAR(モパー)」エアフィルター。旧アメリカン・モータース(AMC1987年クライスラーに吸収)がルノー傘下だった時代があったため、このような共通部品が存在した。

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ホイールが積まれた一角。手前は「シュペール・サンク」用。

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初代「メガーヌ」用のルーフ用クロスバー。その下に転がっている筒はポスターかと思いきや

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箱を開けてみると「19」用サイドモールだった。

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初代「エスパス」のテールゲート。

 

今回の収穫を収めるため、すでにマッシモさんは隣接する別の倉庫を確保したという。だが作業を想像すると、部外者の筆者でも気が遠くなる。「従来のストック同様、すべてをきちんと整理するには、どのくらいかかるのか」という筆者の質問に、「3年はかかるな」とマッシモさんは答える。整理と並行して、撮影ボックスで11点写真に収め、自社ホームページやショッピングサイト「イーベイ」に掲載してゆくのは、スタッフであるミンモさんの仕事だ。果たしてどんなお宝が発掘されるのか。彼らの顧客のお楽しみは、間もなく始まる。

 

De Marco Parts

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木箱の中身発掘は、これからのお楽しみ。

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1992年に制定され、2020年まで使われた旧ロゴの看板も。


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大矢アキオ ロレンツォAkio Lorenzo OYA在イタリアジャーナリスト/コラムニスト/自動車史家。音大でヴァイオリンを専攻。日本の大学院で比較芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。自動車誌...
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