イタリア南部ナポリの旧市街を訪れた。
この地に降り立つたび思うことだが、何気ないピッツェリアのピッツァでも素材が吟味され、絶妙な焼き加減で仕上げられている。
バールしかり。ありきたりの店のバリスタが淹れるエスプレッソでも、最初に唇に触れるクレマ(クリーム)部分からしてドラマティックだ。続いて脳の中で時間が止まるような深い味わいが襲う。
だから普段、故郷以外の食文化を認めたがらない他地域のイタリア人でも、ピッツァとエスプレッソに関しては「ナポリが最高」と言う。
そのナポリ、路上はかなりスリリングだ。ぼんやり歩いていると、スクーターが歩道や歩行者専用ゾーンにも平気で侵入してくる。食卓用の椅子を紐で縛らずに抱えて乗っていたのには、思わず目を疑った。破れたサドルは、見た目を気にすることもなくガムテでぐるぐると補修してある。
クルマもボディに大きな凹みや傷があるものが多い。ナンバープレートが無いクルマさえ見かける。ホーンもよく鳴らす。
いずれの事象も、どこか上海の街を思わせる。
ナポリは、1282年から579年間にわたりナポリ王国、続いて両シチリア王国の首都だった。しかし、1861年にイタリア半島の国家統一が行われると、政治の中心地は北部へと移った。1899年トリノに誕生したフィアットに代表される近代工業も、陸続きの隣国に近い北部で発展してゆくことになった。
第二次大戦後も、公共投資は北部中心に行われていった。犯罪組織の暗躍もナポリの経済成長の足かせとなった。一般的にいわれる「南北問題」だ。
ようやく復興の兆しを見せるきっかけとなったのは、1994年7月に開催されたナポリ・サミットであった。当時のビル・クリントン米大統領が下町で屋台の揚げピッツァを頬張る姿は世界各地で報道され、観光地として脚光を浴びるようになった。
今日でも、ナポリはけっして充分に豊かとはいえない。
年間所得が12万ユーロ(約1500万円)以上の住民は人口の僅か0.07%。ミラノの3.07%、ローマ1.69%に比べると低さが目立つ。収入が無い住民0.6%という数字は、他の2大都市を上回る(データはイタリア収税局調べ。2015年)。
にもかかわらず、欧州でイタリアは、ガソリンなど燃料価格がノルウェーに次いで高額である(2018年11月現在)。
それらの数字を知れば、ナポリで古い車を乗り続けるユーザーが多いのは容易に想像できる。
ただし、ナポリの自動車たちは、古いながらも徹底的にオーナーのお供をしている。信号が変わるたびかっ飛ぶクルマあり、家の前で壊れた洗濯物干しの片脚がわりになっているクルマあり。カーステレオの音質は安っぽいが、その小気味良いビートは、ドライバーだけでなく街の人や観光客までハイにする。
そうした光景を眺めていると、極東の日本に渡ってきたあげく、生涯いちども全力疾走するチャンスがなく、ちょっと旬が過ぎたら手放されてしまうプレミアムカーよりもシアワセに見えてくるのはボクだけだろうか。
同時に、来年で車齢10年を迎えるボクのクルマに対しても、「まだまだいけるじゃないか、一緒に暮らしてやろう」と、知らず知らずのうちに優しい気持ちになるのである。
文と写真=大矢アキオ Akio Lorenzo OYA

ナポリの下町「スパッカ・ナポリ」にて。
イタリアでも少数派となった「アルファ・ロメオ156」。ジウジアーロがレタッチを加えた後期型である。
この国では2000年からすべての年齢で原付のヘルメットが義務化されたが、ナポリではいまだ遵守していない若者多し。
「アルファ・ロメオ33」後期型も現役。車齢は最低でも23年ということになる。

「イノチェンティ」ブランド末期のモデル「エルバ」。元はブラジル・フィアット製造による「フィアット・ウーノ」のワゴン版である。こちらも最低21年もの。

1996年に登場したフィアット製ワールドカー「パリオ」が佇む街角。イタリアにはブラジル工場製が輸入された。

タクシー編も少々。2代目フィアット・プント。
「フィアット・ブラーヴァ」。筆者も一時期イタリアで白の同型車に乗っていただけに、懐かしさがむせぶ。
フィアット・ウーノのピックアップ版「フィオリーノ」を用いた青果屋台。
実用×お洒落系も。ナポリの高台・サンテルモ城で見つけた「フィアット126」。オリジナルに近い色で再塗装がなされている。
かつて「ベスパ」の好敵手だった「イノチェンティ・ランブレッタ」。
「フィアット600」がスパッカ・ナポリの雑踏を行く。まるで時間が止まったような風景である。