ピエモンテ州のワイン産地として名高いASTI。この地方の小さなコミュニティにVINCHIO(ヴィンキオ)という町がある。ちょうどイタ雑で販売中のワインの追加注文にそこを訪れた時、その日一緒だった知人のベッペさんが地区の公民館みたいな所でカレンダーを貰って来た。持ってけよ、と一部手渡されたそれを、隠居した老人たちのたまり場のようになっている古いバールの前でパラパラとめくってみる。モノクロの写真でVINCHIOの昔の様子を伝えている手作り感溢れるそのカレンダーは、既に老齢と言うに相応しい年齢にさしかかった自分にはどこか惹かれるところがあるものだった。
終戦後10年にも満たない1950年代。木綿の揃いのスモック姿の子供たち。幼稚園くらいの年齢のチビたちが集合写真に収まっている。笑ってる子はひとりもいない。みな緊張した顔をレンズに向けている。昔の日本もそうだったけど、写真を撮られるということにはちょっぴり緊張する儀式じみたところがあるものだった。普段触ったこともないカメラという機械への畏敬の思いがそうさせたのだろうか。それはともかく、カメラが捉えていたのはそれだけではなかった。その硬い表情の子供たちの背後に横たわるもの、そう、そこには当時の貧しい暮らしぶりまでがくっきりと滲み出ているのだった。街頭テレビだの、テレビのある家で見せてもらっただのと、日本でも当時の様子はそんなふうに語られるけど、イタリアでもそれは同じだったとベッペさんは懐かしそうに言った。
そんな時代を今自分が生きる恵まれた場所から眺めて、それを無邪気に「あの頃は良かった」と礼賛したりするのは、ぬるま湯に浸かって唸るいい気な鼻歌みたいなものだ。大人が望む子供らしさを子供が持っていたり、暮らしが無駄なく倹しかったりするのは、なにもその当時を生きた人々の精神性が僕らよりずっと高貴だったということではないだろう。百歩譲って彼らの心持ちが今を生きる僕らより慎ましいものだったとしても、その精神のありかたを決定付けたのは人々の選択ではなく時代の要請だったはずなのだ。そう生きるしかなかった、ということ。テレビもゲーム機もなかった子供たちには、路地裏や野山を駆け回ることのほかに何があっただろうか。
それでも、ただひとつ、これだけは確かだと思うことがある。それは夢を見る力の強さである。貧しかった時代の子供たちが抱いた未来への夢や希望は、満たされていない今を跳躍板とするからこそヒリヒリするほどに切実である。漠然と豊かな暮らしを思い描くというより、未来はもっと具体的なカタチを持っている。テレビで見たアメリカのドラマの中の別世界の日常が、それをどんどん後押しした。こうなればいいなぁ、ということが次から次に現れてくる。その時その時に、自分の手にないものを介在して具体化する夢。それが積み重なって胸に満ちるのは、今日よりは明日、という思いだったに違いない。
僕らが失ったものがあるとすれば、いや、僕らに見つけにくくなったものがあるとすれば、それは日々この身に迫ってくる欠乏感のようなものである。過不足ない今に慣れきってそれを甘受している限り、未来を自らの手によって引き寄せる試みなんて疲れるだけのことであったり、無謀な冒険だったりするのだ。なぜならそれはすぐれてひとつの闘いに違いないから。見も知らぬ誰かの苦闘の物語には感動できる「いい人」ではあっても、自分自身は決して闘いの態勢に入ることはない。人それぞれ、なんて都合のいい念仏を唱えて、波風立たぬ平穏な日常の継続を望んでいる。すべて成熟の名のもとに。それは、きっとそれは、今の自分に違いない。きっと、きっとそれは、組織体全体としてのホンダでありソニーであるに違いない。今日よりは明日、と噛みしめて投げる石をこの手にもう一度持ってみたいと、自分に残された時間をわけもなく推計しながら、僕は2012年の川岸に立っている。
イタリア自動車雑貨店 太田一義