本格的に登山を経験したことはない。ハイキングレベルの軽登山を別にすれば、大学時代に友人と北アルプス常念岳を徳沢から登ったのが唯一の経験だ。登り始め1時間ほどの猛烈な苦しさが記憶に残っている。でも山は好きだ。トリノからはヨーロッパアルプスの数々の名峰が眺められる。天気の良い日に北に向かってクルマを走らせれば、半時間もしないうちに眼前にアルプスの山々が屏風のように広がる。その景色を見ると、今このときにも頂上を目指して一歩また一歩と歩を進めるクライマーがいるんだろうなと、そんな想像をしては目を凝らしている。
一口に登山といっても、本格的なそれは方法論の違いにより登り方も異なるようだ。かつて大学の山岳部などで主流の登山法は極地法と呼ばれた。それはベースキャンプを設営し、そこから先、さらにいくつかの前進キャンプを設けていく方法だ。選ばれた登頂隊員とは別の隊員たちによって、各前進キャンプに食糧、酸素ボンベ等の荷揚げが行われる。隊のメンバーのほとんどはこの黒衣役として登山隊に参加することになる。多くの人員と資金を要する、組織を挙げてのチャレンジだと言える。それと対照をなすのがアルパインスタイルと呼ばれる登り方だ。ベースキャンプこそありさえすれ、そこから先は登頂メンバーのみ、もし単独行なら自分ただ一人によるクライミングである。あらかじめ設けられた前進キャンプも、他のメンバーからの荷揚げ等のサポートもなし。テントなしのビバークも辞さず一気に登るわけだ。
どちらがいい悪いは僕のような門外漢にはわからない。しかし、ただ字面だけを追えば、登山として、より純粋かつ困難なのはアルパインスタイルのようにも思える。人間のあらゆる生存条件が削り取られた8000メートル級の山に、単独、酸素ボンベなしで挑むというのは、肉体の限界を超える闘いであると同時に精神の人並外れた強靭さを試されることでもあるだろう。克服していかねばならない孤独の深さはどれほどだろうか。もちろん極地法を選んだとしても、程度の差こそあれ、それは同じなのかもしれない。でも、自分以外の誰かが同じ目的をもってそばにいるということが、酸素ボンベのあるなし以上に生死を分かつ分水嶺になることは多分間違いのないことだと思う。
年が明けてすでに1ヶ月が経とうとしている。新年に一念発起、今まで属した組織を離れてひとり独立の道を選んだ人も少なくないだろう。それが意味することはただひとつ、今まで当たり前のように毎月25日になると振り込まれていた給与がなくなるということだ。酸素ボンベを運び上げてくれたり、前進キャンプを設営してくれたりというサポートのない、アルパインスタイルで進んでいくということだ。それも登山よりずっとずっと長い道程を。この道を選択するのに、その動機が「組織のしがらみを離れてひとりでやってみたい」じゃ弱いかもしれない。少なくとも最後の決め手は「ひとりでも平気」と思えるかどうかだと僕は思う。登山より困難なのは、頂上が見えないこと、しかもその頂上を自分の都合で低くしたりも出来てしまうことだ。今までの人間関係に馴れ合って適当にやって生きていけるのも、この世の中の紛れもない実相なのだから。
もう10年以上前、パリからトリノへ向かう飛行機の窓から、雪のアルプスに挑む3人のパーティのケシ粒のような姿を見たことがある。そこに感じたあの鋼のように張りつめた孤独の影を忘れることができない。美しいと思った。これ以上美しい光景があるだろうかと思った。山に挑む意味、いや、生きることの意味に繋がるなにものかが、クライマーたちのぎりぎりの自己表現としてそこに漂っているように思った。孤独を友とすることによって始まる人生がきっとある。一打目のハーケンに思いのすべてを託して雪煙に霞む頂上を目指す人も、25日の約束の金を恐る恐る捨てた人も、孤独を友として自分の一歩そしてまた一歩を刻みつけていかなければならないのだ。同じだ、と僕は思っている。
イタリア自動車雑貨店 太田一義