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non è bello ciò che è bello, ma è bello ciò che piace.
            ( 美しいものが美しいのではない、好きなものが美しいのだ )
witten by otallo
世界中
うんうんする
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▲ Ferrari P6。今回の主役である。

1968年、トリノ・ショー。Pininfarinaが自らのブースで発表したFerrari P6(以降、P6)は、後のFerrari 365GT4/BBに始まるBerlinetta BoxerシリーズやFerrari 308GTBなど、十数年に亘るロードゴーイング・フェラーリの“スタイル”を決定づける存在となった。
それは1984年のFerrari 288GTO、翌85年のFerrari 328GTBにも引き継がれ、実に1990年代直前まで続くこととなる。これほど長いスパンで一つのデザインが存在し続けたことは、Ferrariにとっても異例と言える。
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Ferrari 288GTO。Ferrari 308GTBから派生したデザインだが、これもP6に源流を求めることができる。フィオラヴァンティ氏曰く「エレガンスと力強さを兼ね備えた、まさにフェラーリらしい一台」とのこと。

1968年と言えば、Ferrari 365GTB/4 Daytona(以降、Daytona)の発表と重なるが、P6のデザイン・アイディアがDaytonaの後継者たるFerrari 365GT4/BBの登場まで市販化を待たなければならなかったことを考えると、いかに早い段階で“次世代のスタイリング”が出来上がっていたかが理解できる。
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▲ Ferrari 365GTB/4 Daytona
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▲ Ferrari 365GT4/BB


果たしてP6誕生の背景には、どのようなプロセスが隠されていたのだろうか。どのような思惑があったのだろうか。そして、どんなメッセージが隠されているのだろうか...。その“正体”を考究してみたいと思う。
 

Ferrariにとって1968年は、先述のDaytonaやDino 206GTといった、二台の名車が生み出された“当たり年だった”と振り返ることができる。
しかし、当時の自動車業界。というよりも、Ferrariが主眼を置いていた市場(現代で言うスーパーカー市場)は、前年に生産を開始した、あのLamborghini Miura P400(以下、Miura)に話題を独占されていたのである。
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▲ 1965年のトリノ・ショーに先行展示されたシャーシ、Lamborghini TP400。レーシングカーを模倣するような設計に、多くの人々が驚き、目を疑ったが、しばらしくてMiura P400と名を改め、現実のもとなった。
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▲ 1966年のジュネーブ・ショーで発表となったLamborghini Miura P400。この時点ではプロトタイプの域を出ていなかったが、生産モデルが完成するまでに、さほど時間はかからなかった。

Bertoneによる流麗なスタイリングはもちろんだが、V12気筒エンジンをコックピット後方のミッドシップに横置きマウントした独創的なアイディアは、当時、どれだけセンセーショナルな存在だったか、これまでも数多く語られている。
それはメディアやマーケットの反応ももちろんだが、何より驚きと焦りを感じていたのはFerrariとPininfarinaだったに違いない。
ある雑誌のインタビューに答えた元Pininfarinaのデザイナーは、当時、社内が“ミウラの亡霊”に苛まれたと回想している。
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▲ プロトタイプのMiuraの前に立つ、ヌッツィオ・ベルトーネとフェルッツィオ・ランボルギーニ。彼らの蜜月はFerrariとPininfarinaを脅かす存在となる。

もちろん、予てからFerrari社内でもリアミッドシップ・レイアウトのロードカーを開発しようとする声はあったが、それに否定的な姿勢を示したのは、誰でもないエンツォ・フェラーリだった。
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▲ Ferrari 250LM Berlinetta Speciale。N.A.R.T.率いるルイジ・キネッティとPininfarinaによって提案されたロードゴーイング・ミッドシップ・フェラーリ。同様の提案は365P“Guida Centrale”にも受け継がれ、こちらは2台が製作された。

一説よれば、エンツォは“フェラーリの顧客リストに名を連ねるような人々が新しい機構(リアミッドシップ・レイアウト)を操れるだけの技量を持っているだろうか?”と苦言を呈していたと言われているが、これには60年代初頭に相次いだFerrari 250GT Coupéによる欠陥事故の訴訟が頭をよぎり、保守的な考えが先行したのかもしれない。
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▲ Ferrari 250GT Coupé。余談ながら、これを購入したフェルッツィオ・ランボルギーニもクラッチの欠陥事故に見舞われFerrariに抗議した。それが“新たなる伝説”の幕開けとなったことは言うまでもない...。

いずれにしろ、表向きには毅然な態度を貫いていたFerrariとPininfarinaだが、紛れもなくMiuraという存在は彼らの牙城を脅かし、その危機感はDino Berlinetta Specialeの登場(1966年)を急がせたとも言われている。
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▲ Dino Berlinetta Speciale。1966年9月のパリ・サロンで発表され、その反響にPininfarinaとFerrariも手応えを感じて、Dino 206GTの開発がスタートする。

また、1966年春に創業者バッティスタ・ピニンファリーナを喪ったPininfarinaは、新たな舵取りを息子セルジオと娘婿レンツォ・カルリに託していた。当時の自動車デザインはウェッジシェイプを基調とする“未来的な嗜好”に移行し始め、前衛的なデザインと、保守的なデザインの、二つの方向性が入り雑じり、社内でも激しく議論されていたとの話も耳にする。
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▲ レンツォ・カルリ(左)とセルジオ・ピニンファリーナ(右)。

1970年代を目前に、人類は宇宙へ、月へと足を延ばし、夢に思い描いていた未来が現実になろうとしていた。輝かしい未来への期待感はファッションや芸術、映画、音楽はもとより、カーデザインにも表れていた。

Bertoneは1970年にマルチェロ・ガンディーニによるLancia Storato’s発表し、クルマは成層圏を飛び出す日も近いのではないかと、期待感を高めた。対するPininfarinaは、パオロ・マルティンによるFerrari Moduroを1971年に発表し、人類の移動手段たるクルマは、もはや宇宙を駆け抜けるモジュールになると未来を想像させた。
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▲ Lancia Strato’s Zero。マルチェロ・ガンディーニの代表作。数年前、まだ悪夢のような破綻劇が起こるなど知る由もなかったBertoneを訪問した際、広報からStrato’s Zeroはモックアップも含め数台が製作されたと伺った。うち何台かは、あの“キング・オブ・ポップ”からの注文だったという。

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▲ Ferrari Moduro。大阪万博に展示され、以降も白いボディカラーが定着しているが、しかし、最初期はパールライトブルーだった。これが残された当時の貴重な写真だとパオロ・マルティンは指摘する。

そんな変革期にPininfarinaは“どのような道”を選択すべきなのか。
様々な思惑も重なるなかで、時代を見据えた新しいデザインとエンジニアリングを提案することが急務となっていたのであろう。

時系列は前後したが、P6の発表に先立つ1968年のジュネーブ・ショーでPininfarinaはFerrari P5なるコンセプトカーを発表している。実は、後のP6と“連作”と言われている一台だ。
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▲ Ferrari P5

このP5は、Ferrari 330P4のベアシャーシを流用し、そこにレーシングプロトタイプの面影を残しつつもエアロダイナミクスに裏付けされた美しくも未来的なボディを纏わせ、ガルウィング・ドアや、ル・マン(サルト・サーキット)の名所“ユノディエール”の直線を見渡せるとも言われた大胆なヘッドライトなど、実験的な提案を盛り込んだ意欲作であった。
そしてP5という車名は、ベアシャーシに由来するP4の次点。つまり、“レーシングプロトタイプの未来像”として“5”という数字が与えられたのである。
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▲ シャーシの提供元になったFerrari 330P4。1967年のデイトナ24時間レースで“1-2-3”フィニッシュを果たしたことが、翌年発表した365GTB/4のサブネーム“Daytona”に繋がったことはあまりにも有名。

しかし、今回の主役であるP6をもう一度思い出してほしい。その“P”で始まる車名を除けば、この二台が“連作”として成立するほどの関連性は乏しいようにも思える。
P6を紐解くには、P5という存在も再考してみる必要もありそうだ。

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▲ Ferrari P6

果たして、P5とP6を繋ぐ“鍵”は何なのだろうか。どのような使命が課せられていたのか。その理由を後編で明らかにしてみたい。

つづく...。



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