文 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA 写真 Akio Lorenzo OYA、Mari OYA、Stellantis
間もなく終わろうとしている2021年、振り返れば「ポルシェ・ボクスター」の25周年、「ランボルギーニ・ムルシエラゴ」の20周年、そして「ブガッティEB110」の30周年が多くのメディアを飾った。フォルクスワーゲン・グループの強力なコミュニケーション力が背景にあるのは、いうまでもない。 いっぽう、イタリア人の路上からも消えつつあるものの、筆者が今年の“歳男”ならぬ“歳車”として記憶にとどめておきたい1台がある。誕生50周年を迎えた「フィアット127」だ。
127をデザインしたのはピオ・マンズー。イタリアを代表する現代彫刻家ジャコモ・マンズーの長男として1939年に生まれた彼は、バウハウスの流れを汲むドイツのウルム造形大学に学んだ。 卒業後、彼はプロダクトデザイナーとして、フィアットのノベルティー&グッズを数々手掛ける。父ジャコモが、フィアット創業家3代目で美術にも深い造詣があったジョヴァンニ・アニェッリと交友関係にあったことがきっかけだった。 マンズーの才能は、フィアットの自動車開発陣からも注目されるようになった。ただし、本人の意思が尊重され、社員ではなくコンサルタントという形で参画することになった。 そして1968年のトリノ自動車ショーで、マンズーとフィアット・デザインセンターは「シティタクシー」を公開する。乗用車の流用であった従来型タクシーのあり方を根底から覆すものだった。
続いて彼が手掛けたのが、フィアット127だった。 事実上の先代でリアエンジンだったフィアット「850」と異なり、127には名設計者ダンテ・ジャコーザによる前輪駆動パワートレインが採用されることになった。 マンズーが模索したのは、シンプル、多用途、かつ量産にも適したデザインだった。彼が学生時代から追求していた、人々が日々用いる自動車の姿を投影したものだった。初期型における不要なモール類の徹底的な排除も、彼の思想を反映していた。
残念なことにマンズーは1969年、最終プレゼンテーションのためミラノの自宅からトリノに向かう途上、交通事故で僅か30年の生涯を閉じる。 しかし、1971年3月にデビューした127は、大人5人が無理なく乗れる室内、350リッターの広いラゲッジルーム容量などが高く評価された。それを反映するように、1971年の欧州カー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。 1971年フィアット127。デザイナー、ピオ・マンズーを代表する仕事である。 フィアット創業家であるアニェッリ家が開発したスキーリゾート、セストリエレを背景に。
筆者がイタリアに住み始めた1996年は、127の生産終了から9年目ということになる。そのためまだ路上でたびたび127を見かけた。とくにクルマの使用年数が長い南部イタリアに行くと、姉妹車であるスペイン製も含め、さらに高頻度で目撃したものである。
筆者の知人で現役時代にフィアットの地元販売店に勤務していたおじさんは、定年退職後も127を大切に乗っていた。 ところが、2000年前後になると町中の127は急激に減少してしまった。イタリア政府による、環境対策車への買い替え奨励金政策のためであった。とくに排ガス対策用の触媒未装着車を廃車にすることが目的とされた。 実際のところ、おじさんの127も、免許を取得したばかりの娘のためのフィアット「チンクエチェント(1991-1998)」を購入するため、ドナドナされていった。 サルデーニャ島にて。2003年。 シエナ大学の裏通りで。2007年。
今回ジュゼッペ氏本人は恥ずかしがって写真には収まってくれなかった。だが、普段の仕事を聞けば、日本でいうところのJAFロードサービス的仕事を隣町で請け負っている人だった。 自動車のプロが30年近く手放さないところから、世界の2ボックス小型車の範となった127というクルマの不朽ともいえる完成度を改めて感じた。 偶然、フィアット「500」が隣にやってきた。 お互いのオーナーが併設のバールでエスプレッソを傾けている間、 127「お前、わしより若いのに、後席は意外にタイトじゃないか」 500「うるさいわねえ。おじいちゃん」 127「お互い、ダンテ・ジャコーザ先生が与えてくださった不等長ドライブシャフト同士だ、仲良くしようじゃないか」 500「……」 などという会話をしているのではないかと、想像してしまった筆者である。