第72回菊花賞。満員の京都競馬場を3歳馬オルフェーブルが、2着に2馬身半差の圧勝で駆け抜けた――、ってスポーツ新聞みたいだな、これじゃ。そういえば競馬場には長いこと足を向けていない。この菊花賞もテレビで見た。人いきれと馬に託した剥きだしの欲望の重さでズブズブと沈み込みそうな、競馬場の決して軽やかでないあの空気感は今も残っているのだろうか。金網に指を絡めて、就職なんてするかよ、と競馬場ではつかの間アナーキーだった若かりし頃。僕はテレビの前でぼんやりそんなことを思い出していた。それにしても馬は、応援よろしくお願いします、なんて言わないからいい。
1977年の有馬記念。古い話になるけれど、暮れのその日、場外馬券売場で来場者数カウントのバイトをしていた。卒論の資料として買い揃えなければならない書籍が信じられないほどに高くて、スポットのバイトをいくつか見つけて稼がなければならなかった。福武書店の添削のバイトは、「こんな乱雑な答案を恥じないなら、君は勉強しても無駄だ」とコメント欄に書いてすぐクビになった。受講者がやる気を失くすそうだ。やる気がないから惨憺たる答案だろうに……。さて、有馬記念はテンポイントとトウショウボーイの一騎打ちだった。結果はテンポイントが勝った。その瞬間の場外馬券場売場のどよめきとともに、額に流星を持ったテンポイントの名が僕の記憶に刻み込まれた。
テンポイント。オレの馬はテンポイントだ、あるいは、オレはテンポイントだ、とそう口にしてみるとよくわかる。いい名前なのだ。それ以上足すものも引くものもなくて潔い名前だ。10ポイントの活字で新聞に載るような馬になれ、との思いが込められたという。次にその名前が再び目の前に迫ってきたのは翌1978年の1月。今年の菊花賞でオルフェーブルが勝った同じ京都競馬場の雪景色の中、テンポイントはレース途中で骨折した。それからしばらくして流星は天に駆け昇って消えていった。
寺山修司は、もし朝が来たら、と『さらば、テンポイント』を書いた。――もし朝が来たら、印刷工の少年は10ポイント活字で闘志の二字をひろうつもりだった。それをいつもポケットに入れて、弱い自分の励ましにするために。(中略)もし朝が来たら、老人は養老院を出て、もう一度自分の仕事を探しにいくつもりだった。「苦しみは変わらない、変わるのは希望だけだ」ということばのために――。それは地に雨が沁み入るような一編のレクイエムだった。
闘志や希望などという手垢にまみれたストックワードを、他に置き換えることのできない本源的な意味のそれとして、僕は寺山修司を読み、テンポイントの死を悼んだ。時代のセンチメンタリズムだと言ってしまえば確かにそうだけど、少なくともそこには一つの勝利の背後に連なる無数の敗北への優しい視線があった。テンポイントもまた敗北の列に加わった。僕が競馬場で学んだことはつまりこういうことだ。負けをうやむやにしないということ。すっからかんになるまで賭けて賭けて賭けまくれ。電車賃を残すな、ということだ。それが出来たかどうかは甚だ怪しいけれど、将来を手探りする若さには競馬場が「学校」だったことは確かだ。一票を投じるということは大切なものを差し出すということ。オルフェーブル快走の菊花賞を無傷で見ていた自分が言うのも変だけど。
イタリア自動車雑貨店
太田一義