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独特の目線でイタリア・フランスに関する出来事、物事を綴る人気コーナー
witten by Akio Lorenzo OYA
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文 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA
写真 Akio Lorenzo OYA/Museo dell’Automobile Torino/FCA

あのテージスのデザイナー

2019年現在、イタリアで最も使用頻度が高い大統領専用車は、2012年に導入されたランチア・テーマである。ただし、米国製クライスラー300の姉妹車だ。

いっぽう、それ以前はランチア「テージス」のベルリーナおよびそのストレッチ・リムジンが使われていた。

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ランチア・テージスは、イタリアで政府公用車としても多く用いられた。


テージスは2001年に発表されたランチアの最高級車であった。
そのデザインをディレクションしたのは、マイケル・ロビンソンである。

マイケル・ヴァーノン・ロビンソンは、1956年米国ロサンゼルスに生まれた。
16歳のある日、クラスメイトから見せられた自動車の写真に衝撃を受けた。
「図書館に行って資料を片端からめくりました。そして、ベルトーネというイタリアのカロッツェリアがデザインしたストラトス・ゼロという車であることを突き止めたのです」
それをきっかけに、マイケルはイタリアでカーデザイナーになることを目標にする。

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若き日のマイケルが衝撃を受けた1970年ベルトーネ・ランチア・ストラトス・ゼロ





ワシントン大学で学んだのち、デトロイト近郊ディアボーンのフォード・デザインセンターと、スウェーデンのボルボでインターンを経験した。
母国アメリカは当時、世界をリードする自動車生産国であった。しかし、イタリアへの憧れからすれば、それは取るに足りないものだった。

 

フィアット/ランチア時代

1980年、憧れの地トリノにやってきて最初に就いたのは、同地にあったオペルのデザインセンターだった。その後ギアを経て1986年にフィアットに移籍。1995年フィアット・ブラーヴォ/ブラーヴァのインテリア・デザインなどを担当した。
「フィアット(のインテリアデザイン)に、エルゴノミックなカーブを採り入れたのは、私が最初でした」とマイケルは振り返る。イタリアに来てから実際にブラーヴァを所有していた筆者は、その有機的な曲線を描いたダッシュボードを、よく記憶している。

やがて1996年、同じフィアット・グループのランチア・デザインに異動。ブランドの復興にあたることになる。当時の代表作がリブラと冒頭のテージス、そして2代目イプシロンである。
ランチアがとびきり上品な高級車だった時代のデザイン・ランゲージを現代風に解釈した。

その後再びフィアット・デザインセンターのダイレクターに就任後、2005年マイケルは約19年にわたるフィアット・グループ在職にピリオドを打った。

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2001年ランチア・テージスと、1950年のランチアを代表する1台、アウレリアB20。





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フィアット時代に手がけた1995年フィアット・ブラーヴァのインテリア。


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1998年ランチア・リブラ


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テージスのデザイン言語を示したコンセプトカー、1998年ランチア・ディアロゴス。


フォーエヴァー・マイケル!

フィアットを離れてからのマイケルは、雑誌クアトロルオーテ誌にデザイン評論を執筆。毎号イラスト付きのそれは、人気連載となった。

 

しかしカーデザイン界は、彼の才能を見逃さなかった。
ベルトーネがエグゼクティヴ&ブランドデザインダイレクターにマイケルを据えたのである。53歳の年だった。
彼が青年時代に憧れ、この道に入るきっかけとなった、あのベルトーネだ。

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マイケル・ロビンソンがベルトーネのデザインチームを率いていた時代に発表した2010年アルファ・ロメオ・パンデオン

ベルトーネでもブランド復興を担ったマイケルは、ジュネーヴ・ショーで2010年から4年連続でコンセプトカーを発表。2012年のヌッチオは、16歳の日初めて出会ったストラトス・ゼロへのオマージュだった。
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ヌッチオ・コンセプトとマイケル。「(ピラーの)オレンジは、長年にわたるベルトーネのイメージカラーです」



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2012年ベルトーネ・ヌッチオ・コンセプト


2013年のアストン・マーティン・ジェット2+2シューティング・ブレークでは、自らジェームズ・ボンド風いでたちで現れた。

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アストン・マーティンということで、本人は007風で決めて登場。傍らに立つ彼の娘も、現在デザインの道を歩んでいる。




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ベルトーネ・アストン・マーティン・ジェット2+2シューティング・ブレーク。2013年ジュネーヴ・ショーで。

そしてトリノ自動車博物館の「デザイナー殿堂」入りを果たした2013年からは、ふたたびフリーランスのデザイナーとして活躍している。

マイケルが去ったあとのベルトーネは複雑な経緯を辿った。しかし彼のベルトーネへの尊敬の念は変わらない。
2018年4月ミラノ・マルペンサにオープンした旧ベルトーネの歴史コレクションには、マイケルがボランティアで撮影したベルトーネ旧社屋の俯瞰写真が掲げられた。

さらに旧ベルトーネで実際にストラトス・ゼロをデザインしたマルチェッロ・ガンディーニの回顧展企画では、監修者のひとりとして名を連ねた。
2019年1月に開かれたそのオープニング・トークショーには、ガンディーニ本人とともに登壇した。

今日、自動車業界のニュースを眺めれば、幹部の他社移籍の知らせが溢れている。それどころか、別業種への転職も珍しくない。

いっぽうマイケルは、青年時代に灯した情熱の火を保ち続けた。先行き不透明だった時代のフィアットでは、果敢にも過去のブランドになりかけたランチアの復興を手がけ、さらに自分の人生を決めたベルトーネにも貢献した。

それだけの仕事をこなしながら、いつも対話者を笑いに導く。
たとえば、念願叶ってストラトス・ゼロと対面したときの話だ。学生時代バスケットボール選手でもあった長身の彼に対して、ストラトス・ゼロの全高は僅か84cm! 乗り込むのに苦労が伴ったことを、ジャスチャーを交えてユーモラスに語って聞かせてくれる。

2019年で63歳。現代のカーデザイン界はもとより、自動車ビジネスにおいても類まれなるカー・ガイである。

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トリノ自動車博物館「ガンディーニ 隠れた天才」展では監修を務めた。なお同展は、2019年5月26日まで開催中。

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大矢アキオ ロレンツォAkio Lorenzo OYA在イタリアジャーナリスト/コラムニスト/自動車史家。音大でヴァイオリンを専攻。日本の大学院で比較芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。自動車誌...
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