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独特の目線でイタリア・フランスに関する出来事、物事を綴る人気コーナー
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文 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA
写真 Akio Lorenzo OYA、Mari OYA、Stellantis

間もなく終わろうとしている2021年、振り返れば「ポルシェ・ボクスター」の25周年、「ランボルギーニ・ムルシエラゴ」の20周年、そして「ブガッティEB110」の30周年が多くのメディアを飾った。フォルクスワーゲン・グループの強力なコミュニケーション力が背景にあるのは、いうまでもない。
いっぽう、イタリア人の路上からも消えつつあるものの、筆者が今年の“歳男”ならぬ“歳車”として記憶にとどめておきたい1台がある。誕生50周年を迎えた「フィアット127」だ。

早世の天才によるマスターピース

127をデザインしたのはピオ・マンズー。イタリアを代表する現代彫刻家ジャコモ・マンズーの長男として1939年に生まれた彼は、バウハウスの流れを汲むドイツのウルム造形大学に学んだ。
卒業後、彼はプロダクトデザイナーとして、フィアットのノベルティー&グッズを数々手掛ける。父ジャコモが、フィアット創業家3代目で美術にも深い造詣があったジョヴァンニ・アニェッリと交友関係にあったことがきっかけだった。
マンズーの才能は、フィアットの自動車開発陣からも注目されるようになった。ただし、本人の意思が尊重され、社員ではなくコンサルタントという形で参画することになった。
そして1968年のトリノ自動車ショーで、マンズーとフィアット・デザインセンターは「シティタクシー」を公開する。乗用車の流用であった従来型タクシーのあり方を根底から覆すものだった。

続いて彼が手掛けたのが、フィアット127だった。
事実上の先代でリアエンジンだったフィアット「850」と異なり、127には名設計者ダンテ・ジャコーザによる前輪駆動パワートレインが採用されることになった。
マンズーが模索したのは、シンプル、多用途、かつ量産にも適したデザインだった。彼が学生時代から追求していた、人々が日々用いる自動車の姿を投影したものだった。初期型における不要なモール類の徹底的な排除も、彼の思想を反映していた。

残念なことにマンズーは1969年、最終プレゼンテーションのためミラノの自宅からトリノに向かう途上、交通事故で僅か30年の生涯を閉じる。
しかし、1971年3月にデビューした127は、大人5人が無理なく乗れる室内、350リッターの広いラゲッジルーム容量などが高く評価された。それを反映するように、1971年の欧州カー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。

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1971年フィアット127。デザイナー、ピオ・マンズーを代表する仕事である。


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フィアット創業家であるアニェッリ家が開発したスキーリゾート、セストリエレを背景に。

翌1972年にはテールゲートを備えた3ドア版が追加され、さらに機能性が向上した。
1977年にはシリーズ2に発展し、翌1978年には70hpエンジンを搭載した「127スポルト」が追加された。そして1981年には再びフェイスリフトが行われ、シリーズ3に発展する。
1983年に後継車となる「ウーノ」が登場したあとも、127は生産が続けられた。その長いライフスパンの間には、スペインやアルゼンティンでも造られた。1987年にカタログから消えるまで生産された127は520万台以上に達する。

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走行中の助手席から撮影したので画質はお許しを。2019年夏、エルバ島ですれ違った127シリーズ2。


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シリーズ3のフロントマスク。このクルマについては、のちほど。


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最終型は、このようなフェイスだった。シチリア島トラパニにて2003年撮影。


30年モノ発見

筆者がイタリアに住み始めた1996年は、127の生産終了から9年目ということになる。そのためまだ路上でたびたび127を見かけた。とくにクルマの使用年数が長い南部イタリアに行くと、姉妹車であるスペイン製も含め、さらに高頻度で目撃したものである。

筆者の知人で現役時代にフィアットの地元販売店に勤務していたおじさんは、定年退職後も127を大切に乗っていた。
ところが、2000年前後になると町中の127は急激に減少してしまった。イタリア政府による、環境対策車への買い替え奨励金政策のためであった。とくに排ガス対策用の触媒未装着車を廃車にすることが目的とされた。
実際のところ、おじさんの127も、免許を取得したばかりの娘のためのフィアット「チンクエチェント(1991-1998)」を購入するため、ドナドナされていった。

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サルデーニャ島にて。2003年。


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シエナ大学の裏通りで。2007年。

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気負ったデザイン的主張は無いものの、見るからに使いやすそうなクルマであった。2007年。


いっぽう2021年初夏のことである。行きつけの給油所にフィアット127が佇んでいるのを発見した。
シリーズ3の「900」というモデルである。内外に多用されたプラスチック部品は、フィアット・リトモなどにみられる当時のトレンドを反映しアップデートされたものであることは明らかだ。

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シエナのガソリンスタンドに佇んでいた127シリーズ3。2021年初夏。


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ウィンドーの角度と曲率が時代を感じさせる。フィアット純正クーラント液「パラフルー」を勧めるステッカーが貼られている。

しかし、広大な室内空間とラゲッジスペースは、マンズーが初期型で思い描いた理想の小型車像を継承している。
オーナーがいたので声をかけてみた。ジュゼッペという名の彼も127のスペース・ユーティリティーは、今日のどのクルマにも代えがたいという。
ボディは屋外保管ということもあり、窓回りなどに腐食がみられるが、機構部分は「僅かな工具で、大抵の修理が済んでしまうんだ」と絶賛する。
ボディの造りはそれなりだが、エンジンは適切な整備を欠かさなければ、ひたすら元気に走り続ける。まさにちょっと古いフィアットを地で行っている。

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127シリーズ3のダッシュボードは、2代目ホンダ・シビックなどに見られた“絶壁型”。グローブボックスは潔く省略されている。







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スピードメーターの右には、各ギアにおける推奨速度が記されているが、903cc仕様と1050cc仕様兼用だ。

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車格以上に座り心地が良さそうなリアシート。

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今日見てもモダンな並行四辺形ロゴのバッジ。

今回ジュゼッペ氏本人は恥ずかしがって写真には収まってくれなかった。だが、普段の仕事を聞けば、日本でいうところのJAFロードサービス的仕事を隣町で請け負っている人だった。
自動車のプロが30年近く手放さないところから、世界の2ボックス小型車の範となった127というクルマの不朽ともいえる完成度を改めて感じた。
偶然、フィアット「500」が隣にやってきた。
お互いのオーナーが併設のバールでエスプレッソを傾けている間、
127「お前、わしより若いのに、後席は意外にタイトじゃないか」
500「うるさいわねえ。おじいちゃん」
127「お互い、ダンテ・ジャコーザ先生が与えてくださった不等長ドライブシャフト同士だ、仲良くしようじゃないか」
500「……」
などという会話をしているのではないかと、想像してしまった筆者である。

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当時の販売店のステッカー。

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ラゲッジルーム。収まっているのは、その日オーナーがスタンドで買い求めた潤滑油である。










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隣のフィアット500と、どのような会話を交わしているのだろうか。
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文 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA
写真 AkioLorenzo OYA/Mari OYA/NH TorinoLingotto Congress /DoubleTree by Hilton Turin Lingotto/Hotel Maranello Village

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ホテル「マラネッロ・ヴィレッジ」の客室一例。2002年のF1マシンとミハエル・シューマッハのサインが。

イタリアにおける自動車産業の中心地を挙げるなら第一がトリノ、第二がモデナとその近郊マラネッロである。前者がフィアットを中心とするポピュラーカーの都であるのに対し、後者はハイパフォーマンスカー&エンジンの里といえる。筆者の勝手な定義では、トリノは愛知県豊田市、モデナおよびマラネッロは静岡県浜松市周辺である。
今回はその2都市で、クルマ好きなら必ず泊まってほしい4つ星ホテルを3軒紹介しよう。

今夜は「工場」に宿をとる

まずは“イタリアのデトロイト”と称されるトリノ。そのなかでリンゴットはフィアットによって栄えた街区である。中央駅であるポルタ・ヌオーヴァ駅から地下鉄で南に6駅めだ。
そこに建つ旧フィアット・リンゴット工場は、1916年にジャコモ・マッテ=トゥルッコによって設計された鉄筋コンクリート5階建ての建築物である。屋上には総延長約1kmのバンク付きテストコースを擁する。フィアットはここで1923年の操業開始以来、大衆車「トポリーノ」「500」など80車種を生産し、隣接施設では航空機も製造した。
1982年、工場は閉鎖される。最後の車種は「ランチア・デルタ」だった。
ただしフィアットは、ヨーロッパ近代産業史に残るこのビルを解体せず、イタリアを代表する建築家レンツォ・ピアノに大規模改装を託した。その結果、ショッピングモール、映画館、オフィス、そしてコンサートホールなどを包括した複合施設に生まれかわかった。

このフィアットゆかりの施設館内には、嬉しいことに2つのホテルが設けられている。
かつては2軒とも「ル・メリディアン」系だったが、現在はそれぞれが異なるホテルグループのものになっている。

ひとつは「NHトリノ・リンゴット・コングレス」である。
レセプション奥のレストランは、到着後の食前酒にもふさわしい。「Torpedo」の店名どおり、ワインレッドのフィアット製戦前型トルペード(オープンカーの一種)が迎えてくれる。
部屋に一歩入った途端目に入る天井の高さは、そこが工場であったことを物語っている。
部屋の向きは2つだ。旧フィアット本社棟――今日ではフィアット創業家による投資会社が使用しているーー側の部屋と、かつて毎日新車が運び出された鉄道駅側である。どちらもイタリア自動車史に思いを馳せるには、とっておきのロケーションといえる。

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トリノのフィアット旧リンゴット工場と著者・大矢アキオ。2021年7月撮影。

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旧フィアット工場棟は今日、複合商業施設&オフィスとして使われている。「NHトリノ・リンゴット・コングレス」もこの中にある。

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その客室内(ル・メリディアン・リンゴット時代に撮影)。

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隣接して残る旧フィアット本社棟。

もう1軒は、その母屋とT字型に交わる「ダブルツリー byヒルトン トゥーリン・リンゴット」である。こちらはル・メリディアン時代に「アート&テック」というサブネームが付いていたとおり、館内がよりモダンなデザインで仕上げられている。各フロアを貫通した巨大な吹き抜けにも目を見張る。
廊下の壁や室内には、レンツォ・ピアノによる構想図や詳しい設計図が展開されている。建築・デザインファンがしびれる演出である。

いずれのホテルも、トリノの名所・自動車博物館(MAUTO)まで徒歩約10分で行けるのがこれまた嬉しい。

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「ダブルツリー byヒルトン トゥーリン・リンゴット」


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吹き抜け。部屋からレストランに向かうたび、気分が高揚する。


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スイート・ルーム。室内にもレンツォ・ピアノが手掛けた図面が掲げられている。

NH Torino Lingotto Congress
Via Nizza, 262 10125 Torino ITALIA

https://www.nh-hotels.com/hotel/nh-torino-lingotto-congress

DoubleTree by Hilton Turin Lingotto
Via Giacomo Mattè Trucco, 1, 10126 Torino TO
 

フェラーリづくし、そしてもうひとつの喜び

次はフェラーリ本社工場があるマラネッロにご案内しよう。
この町は、オフィシャルのフェラーリ・ストアだけでなく、周辺には大小の跳ね馬グッズを扱うショップが連なり、さながら門前町の様相を呈している。

ただし、ホテルはフェラーリ本社から4km離れたポッツァ・ディ・マラネッロ地区にある「マラネッロ・ヴィレッジ」がお薦めだ。
宿泊棟は4つに分かれていて「SUZUKA」「LE MANS」「MONZA」そして「DAYTONA」とフェラーリが活躍した舞台の名称がついている。
部屋の壁はモデナ・イエローもしくはマラネッロ・レッドで彩られ、往年のフェラーリの勇姿が描かれたポスターが掲げられている。
リストランテは「パドック」「ピットレーン」、よりカジュアルに飲食ができるバールは「ストップ&ゴー」と、こちらも洒落たネーミングだ。ついでにいうとジムの名前は「ボディ・チューニング」である。
オフィシャルのフェラーリ・ストアも、小さな面積ながら併設されている。
廊下のカーペットの縁には、チェッカーフラッグとともに歴代モデルが記されている。ここを通るたび、自分の発進加速を試してみたくなるのは筆者だけではなかろう。
「フェラーリ458スパイダーの10分間ドライビング体験付き」といったユニークな宿泊プランも提供されている。

ここまで“フェラーリ度”が高いのには理由がある。施設はもともと2006年11月にフェラーリ社の社員および関係者の居住・滞在施設として開設されたものだからである。

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ホテル「マラネッロ・ヴィレッジ」

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たとえばレセプションでSUZUKA棟の◯号室と告げられたら、この建物に向かう。

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思わずダッシュしたくなる廊下のカーペット。

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いきなり「フェラーリ575M マラネッロ」のダッシュボードが。


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もともとは関係者用の居住・滞在施設として計画された。

Hotel Maranello Village
Viale Terra delle Rosse, 12  41053 Maranello (MO) ITALIA


今回紹介したホテルに初めて泊まったときの筆者は、クルマ度数の高さに、つい館内や施設内をふらついてしまい、寝床につくのが遅くなってしまったものだ。

ただし、自動車との近さを感じるのは、しつらいだけではない。
リンゴットの場合、同じ建物内には、ダンテ・ジャコーザ、セルジオ・ピニンファリーナをはじめ自動車界の名士を数々輩出した「トリノ工科大学」があり、学生の姿が絶えない。
モデナの宿でもたびたび若者たちと朝食の席で顔を合わせる。彼らの多くは、フェラーリが長年実施している研修プログラムを勝ち取った参加者たちだ。

デザイナーやエンジニアの卵たちの生き生きした姿や熱いクルマ談義に接するたび、イタリア自動車産業は、まだまだ明るいことを確信する。
“自動車系ホテル”には、こうした喜びもあるのだ。

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文と写真 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA

日本では当たり前でもイタリアに無いものは多々ある。たとえば日本のチェーン系コンビニエンス・ストアのような業態は、基本的に存在しない。取り扱い品目ごとの細かな規則やタバコ商などの高い参入条件、24時間営業を困難にする労働関連法、そして強力な労働組合、と世界的チェーンが参入をためらう理由が数々あるからだ。
それはともかく、イタリア自動車生活において、実は珍しいものといえば「カー用品チェーン」である。

ありそうで無かった

日本では至極当たり前の「オートバックス」「イエローハット」のようなカー用品販売と整備双方のサービスを提供するチェーン店が、イタリアでは長いこと存在しなかったのだ。
かわりに、カー用品は地元の個人が経営する小さな専門店に頼るのが一般的だった。整備もオイル交換を含む機関系、タイヤ、電装、民間車検専門…と細分化されていて、必要に応じてそれぞれの施設に行く必要があった。近年ではめっきり見なくなったが「キャブレター専門」という店もあったほどだ。

だから隣国フランスにクルマで行って、郊外ショッピングセンターの一角に、日本に似たカー用品チェーンを頻繁に発見するたび、羨ましかったものだ。

それでもイタリアでカー用品チェーンは、皆無だったわけではない。
日本ではオンラインストアとして知られる「ノルオート(Norauto :イタリアではノラウトと発音する)」はその先駆けだった。フランスで1970年に創業した同社は、1991年にイタリアに初進出。ただし当初は、北部が中心だった。
2021年現在、イタリアにおける店舗数は39である。上陸後20年でその出店ペースとは、日本のチェーン店からするとけっして早い部類ではない。だが、これまたイタリアの気の遠くなるような業種別規制を乗り越えてのことと考えれば、奮闘と評価すべきだろう。

そもそも昼休み無し、日曜日こそ午後休みだが年中無休ということ自体、実はイタリアの自動車サービス業界で極めて画期的なことだ。労働組合との丹念な交渉がしのばれる。

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フィレンツェ郊外カンピ・ビセンツィオにあるノルオート。イタリアでは34番目の店である。


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来客用エントランス。イタリアの自動車整備業界で平日昼休みがないのは、実は画期的なことである。

実は珍しいこと、いろいろ

筆者が住むイタリア中部トスカーナにようやくノルオートが開店したのは2017年4月、フィレンツェ郊外のカンピ・ビセンツィオだった。イタリア国内では34番目の店という。シエナの我が家からは約70kmのところにある。

地元ニュースサイト「ピアナノティーツィエ」2017年2月7日号を参照すると、「開店にあたり15人を新規採用」と伝えている。雇用情勢が慢性的に厳しいイタリアで、カー用品チェーンは、地元労働市場にも貢献しているのである。
参考までにノルオートの2021年資料によれば、外国人採用にも力を入れており、すでにスタッフの20%はEU域外の国籍という。その傍らで採用にあたっては、少なくとも2回の面接を実施し、年間10,000時間の研修を提供していると胸を張る。

筆者がこの店を最初に利用したのは2019年で、エアコンのガスチャージが目的だった。
ウェブで申し込めて、その金額は39.95ユーロ(約5千円)ぽっきり。明朗料金だ。なぜそんなことを書くのかといえば、従来イタリアでは、この手の簡単な作業でも電話か店頭での予約が必要なうえ、言い値の店が少なくなかった。クレジットカード払いもだめで、現金は作業後メカニックのおじさんがツナギのポケットに突っ込む、ということがたびたびあったのだ。

そして2021年7月、今度はメーカー指定の定期点検を頼むことにした。従来筆者はディーラーの併設サービス工場でそれを受けてきたのだが、ノルオートでも実施していることを知ったのだ。なにより料金がカーディーラーだと、円換算で1回4万円近くを要するところ、約2万4千円に押さえられるのが嬉しい。
ウェブ予約時にカードで前払いの必要がある。だが、陸運局のデータベースが広く民間にも共有されていることもあり、ナンバープレート番号を入力するだけで交換部品・オイル代を含んだ見積もり金額が即座に表示される。これは便利だ。

当日筆者の予約は午前11時。所要時間は約4時間という。すぐ隣にあるショッピングモールで半日を過ごすことにした。
イタリアの従来型自動車販売店およびサービス工場は、郊外の寂しいところに立地しているのが大半だ。工場によっては有料の代車を借りないと、身動きがとれなくなる。いっぽうで、こうした近代的なカー用品チェーンの多くは、時間を潰せる大規模商業施設の近くにあるのがありがたい。
イタリアはちょうど夏のバーゲン時期。昼食を食べてモール内の店を冷やかしていたら、あっという間に半日が過ぎてしまった。おかげで作業完了が予定より1時間半ほど遅れても、たいして苦にならなかった。

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整備ブース入口脇にある立て看板のように、明朗な料金体系もイタリアでは革新的といえる。

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販売コーナーの様子。夏休み時期ということで、サンシェードやパラソルが目立つ。

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あのピニンファリーナ・ブランドが付いたカーケア用品も。

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ドライブレコーダーの部。その店頭取り扱いスタートと品揃えの充実は、イタリア国内においてノルオートが早かった。


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子ども用の乗り物。数は少ないが厳選していることがわかる。

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昨今都市モビリティとして人気の電動キックボードも、数年前から置かれるようになった。


鍵は巧みなローカライズ

と、ここまでは万事が順調に進んだわけだが、ハプニングが待っていた。
クルマを引き取りに行ってみると、いっこうにキーを返してくれない。「何が起きたのか」と聞けば、筆者がウェブ申込および電子決済をしたデータが本部から届いておらず、店頭申込価格で処理してしまったのだという。そのため、すべて手入力でレジ打ちし直していたのだ。
こうした本部・店舗間の連携不備によるドタバタは、業種を問わずイタリアでは、ときおり遭遇することである。ここは腹をくくって、店内を見学して待つことにした。

 

売り場は天井が高く、開放感がある。
ステアリングやペダルに掛けてロックする物理的な盗難防止装置は、ハイテクデバイスが登場する中でも根強い人気があるらしく多数取り揃えられている。いずれも派手なカラリングなのは、犯人がその存在に気づかぬままガラスを割ってしまうのを未然に防いでくれる。残念なことだが、年間の車両盗難数が日本の10倍以上に達するイタリアを物語っている。

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ステアリングやペダルの物理的ロック盗難防止装置だけでも、このようにラインナップが。大半はノルオートのオリジナルだ。

イタリアにおいて2018年の法律で義務付けられた「乳幼児置き忘れ防止システム」もある。
ベビーシート下に敷くタイプ、ベルトに装着するタイプ双方だが、いずれも子どもを車内に忘れそうになると、ブルートゥースを介して保護者のスマホアプリのアラームが作動する仕組みだ。

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乳幼児の車内置き忘れ防止装置。チャイルドシート下に敷くタイプや、ベルトに装着して使うもの双方がある。

次はカーオーディオ。ここのところ家電・エレクトロニクス市場で退潮著しい日本ブランドだが、この分野だけは、幸いなことにいまだ健闘している。

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オーディオは唯一残された日本ブランドの牙城。


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欧州における簡易カーナビの雄「トムトム」がリリースした2輪用ナビ。車両から離れるときは着脱が可能だ。

休憩スペースを覗くと、イタリア屈指のコーヒー・ブランド「ラヴァッツァ」の自動販売機が置かれていた。エスプレッソやカプチーノはじめコーヒーが6タイプ選択できるうえ、砂糖の量も6段階調節できるのは、やはりこの国である。

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休憩コーナーにて。ラヴァッツァのコーヒー販売機(左)も。


ドアミラーに被せるイタリア国旗色カバーは、もしかしたら時節柄サッカー「ユーロ2020」商品の売れ残りかもしれない。

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ミラーに被せるイタリア国旗色のカバー。

しかしながら最も楽しいのはシートカバーの部である。木製ビーズやメッシュ製のものが、モダンな店内の雰囲気や他製品と妙なコントラストを醸し出していた。
思えば筆者の少年時代、昭和ひと桁生まれの亡父が愛用していて、いつも「カッコわるいからやめてほしい」と願っていたものだ。
ただしイタリアの若者の間で、こうしたレトロ系クッションはけっして評判が悪くない。ある知人によれば、その快適さから女子受けもけっして悪くないようだ。価格も手頃で、ちょっとした「おもてなしカーグッズ」なのである。したがって、ノルオートで売っているのもけっして不思議ではない。

革新的な店に、お国柄あふれるさまざまなアイテム。この巧みなローカライズが、ヨーロッパ版カー用品チェーンがイタリアで成功している秘密に違いない。

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懐かしい木製ビーズシートカバー。価格も約11.95ユーロ(約1600円)と、意外にお手頃。

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こちらも昭和感あふれるメッシュのシートカバー。さらにお得な9.95ユーロ(約1300円)。




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文と写真 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA
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2台並んだマイクロカー。夕刻ゆえ、旧市街に散歩にやってきたお年寄りのクルマだろう。2021年5月、シエナにて撮影。

バイクショップで買える軽便車

日本ではトヨタ車体の超小型EV「コムス」を大都市で見かけるようになって久しい。
ヨーロッパでは2012年にデビューしたルノーの「トゥイジー」がそれに該当するといえる。
2020年にシトロエンがリリースした「アミ」もしかりである。

こうしたクルマは欧州で「マイクロカー」という、内燃機関車としてすでに存在していたカテゴリーに分類される。街乗り用の超小型車だ。今回はそのワンダフルな世界について紹介しよう。

起源のひとつとして挙げられるのは第二次世界大戦後の軽便車である。古いクルマに詳しい読者ならご存知の「イセッタ」「メッサーシュミットKR200」などがそれに該当する。
それらは「シトロエン2CV」「フォルクスワーゲン・ビートル」といった、大手自動車メーカーの高性能な大衆車にその座を奪われた。
だが、1960年代に入っても各国の、よりローカルな企業によって開発と発売が行われてきた。
フランスやイタリアでは長年、運転免許さえ不要だったことから、無免許で運転できるクルマを示す「ヴォワテュール・サン・ペルミ」もしくは「ヴェットゥーラ・センツァ・パテンテ」という通称で呼ばれるようになった。

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2005年5月、シエナにて撮影。まだこの頃は、3輪のマイクロカーも見かけた。これはカザリーニ(イタリア)の「サルキー」というモデル。

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三菱重工製2気筒ディーゼルを搭載したカザリーニ製マイクロカー「イデア」。フロントフェンダーには小さいながらもMotore Mitsubishiの文字が誇らしげに記されていた。2008年撮影。

1992年には欧州連合(EU)によって、マイクロカーの共通規格が定められた。
年を追って修正が行われてきたが、よりシンプルな「軽量型」の一部を記すと、以下のようになる。

排気量
火花点火内燃機関(ガソリンエンジンなど)が50cc以下
その他の機関(ディーゼルエンジン、EVなど)は最高出力6kW(約8.2PS)以下
最高速度 45km/h以下

今日、大半のマイクロカーのエンジンは、500cc級の汎用ディーゼルエンジンを使用している。

また、もうひとつ上の「重量型」といわれる最大出力15kWのマイクロカーも存在する。

マイクロカーの使われ方は、1990年代中盤にイタリアにやってきた筆者が覚えているだけでも変化した。
もともとは視力・聴力などで普通免許の更新が難しくなったお年寄りが、街乗り用に買い求めるのが大半だった。
そして今日でも同じだが、販売代理店はスクーター大国イタリアで誰もがアクセスしやすいバイクショップが兼ねていた。
量産効果が上がらないため、新車だと日本円にして常に100万円以上と、普通の小型車並みの価格でも売れる理由はそのあたりにあった。そうした店では、価格がこなれて30万円程度の中古車もたくさん扱っていた。

さらに、かつてパリで専門店を取材した際セールスパーソンから聞いた話によると、無免許で運転できるため、運悪く普通運転免許が停止になってしまったときの代替の足としても需要があった。レンタル制度も充実していたのは、その証だった。

ただし2000年代に入り、各国の道交法改正によって、いわゆる軽量型マイクロカーでも原付免許が最低限必要になってからは、そうした需要は減っていった。
代わりにメーカーが需要の掘り起こしを図ったのは、14歳から乗れることを背景にした若者需要であった。
マイクロカー・ブランドにとって晴れ舞台のひとつであったパリ・モーターショーでは、若者を意識したモデルが次々と展示されるようになった。
メーカーによっては「これは最近のルノー風です」「スマート・フォーツーを意識しました」などと、堂々とデザインの参照元を教えてくれたのが痛快だった。

いっぽう今日イタリアにおいては、気がつけば保険、自動車税ともに金額は一般車に限りなく近くなってしまった。それでも自治体によっては2輪用公共駐車場の使用が許されているため、パーキング争奪戦が激しいイタリアで、マイクロカーは便利だ。さらにこれまた2輪同様、一般車では禁止されている歴史的旧市街への進入もOKである街が多いことにより、マイクロカーは一部の市民から絶大な支持を得ているのである。

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マイクロカーは2輪用駐車場を使用してもOK。

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ただし、うっかりしているとスクーターたちに包囲されてしまうこともある。


幻の力作も

若干以前のデータになるが、ヨーロッパには32万台ものマイクロカーが普及している。1位はフランスの14万台、2位はイタリアの8万台、そして3位はスペインの3万8千台だ。イタリアの業界団体に登録されている内燃機関のマイクロカーを製造するメーカーは「リジェ」「カザリーニ」など伊仏5社とエンジン生産業者「ロンバルディーニ」の1社である。業界はヨーロッパで2万人の雇用を創出しているという(データ出典: ANCMA 2010年)


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エクサム(フランス)の「ミニオト」。道路運送車両法上は原付き2輪に準ずる扱いなので、前部にナンバーは不要である。

そうしたマイクロカーには、絶版になってしまったものの、面白いモデルもあった。
ひとつは「タウンライフ」で、これはランボルギーニ創業者の長男トニーノ・ランボルギーニ氏が2000年代初頭にプロデュースしたものだった。バージョンには父の名である「フェルッチョ」や自身の娘の名前である「ジネヴラ」が冠せられていた。

「ランボルギーニ・カウンタック」のようなシザーズ・ドアを備えたマイクロカーも造られた。筆者が住むシエナ県のキャンピングカー会社が開発したものだった。2007年に工場取材に行くと、かつてフェラーリおよびランボルギーニの車体試作部門で働いていた職人さんもいた。
扉は見た目のインパクトよりも、狭い場所での乗降性を考えたものであると説明を受けた。

いっぽうフランスの「リジェ」社による「ビーアップ」のデザインに関与したのは、惜しくも2021年3月末にこの世を去ったシトロエンSMやCXのデザイナー、ロベール・オプロンである。前述のように高齢者の乗り物であったマイクロカーのイメージを、小粋なピープルズムーバーに変えようとした挑戦的なモデルであった。

これらはいずれももはや新車で入手不可能だが、心意気は評価したい。

最後にマイクロカーといえば、我が家の近所を毎朝通り過ぎる1台がある。年中無休で通過し、しばらくすると戻ってくる。
やがて判明したその持ち主は、菓子店であるということだった。
マイクロカーが辿る道の先にあるのは事実上ホテル1軒だ。毎朝そこまで朝食用に納品に行っているのに違いない。
マイクロカーのロンバルディーニ製汎用2気筒505ccディーゼルエンジンは車体の振動も伴って、かなりの轟音となる。それが住宅街に響き渡るわたるものだから、筆者はつい起きてしまう。
それでも通過するのは毎朝6時であることに気がついてからは、最強の目覚まし時計としてポジティヴに捉えることにした筆者である。

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手前はトニーノ・ランボルギーニ「タウンライフ」、奥はリジェ「ビーアップ」。

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ジョット・ライン「ジンコ」は、シザーズ・ドアを備えていた。


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ジンコの生産工場。FRPボディにスチール+コンポジット素材フレームの組み合わせだった。2007年シエナ県ポッジボンシで。

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リジェ「ビーアップ」。名デザイナーR.オプロンや「ジウジアーロ・デザイン」が開発に関与した。
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これは、すでに消滅してしまったイタリアのメーカー「グレカヴ」によるマイクロカー「エケ」。
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witten by Akio Lorenzo OYA
世界中
うんうんする
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文と写真 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA

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2020年は突然F1の開催地にもなったムジェッロ・サーキット。たびたびヒストリックカーのファンイベントの舞台にもなる。

スピードの聖地だけではなかった

ムジェッロ(ムジェロ)と聞いて、多くのCOVO読者が思い浮かべるのはサーキットであろう。
全周5,245kmのムジェッロ・サーキットは、長年にわたりロードレース世界選手権(モトGP)イタリア・グランプリの開催地として知られてきた。2020年9月には史上初のF1トスカーナ・グランプリが催されたことをご記憶の方も多いだろう。

こうしたレース以外にも、週末にはヒストリックカーやファンイベントに、さらには市販前車両のテスト走行にも年間を通じて使われている。

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MINIのインターナショナル・ミーティングにて。

このムジェッロ、イタリア中部フィレンツェ旧市街からクルマで北へ約35km、およそ1時間の山間にある。筆者が住むシエナからも、クルマで1時間半程度の場所だ。

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ムジェッロ・サーキットに向かう途中で。草むらに突如現れるフェラーリを模したと思われるオブジェ。

レース期間中、周辺の宿やアグリトゥリズモは、毎回大繁盛となる。サーキットからクルマで約7分ほどのところにあるスカルペリーア・エ・サンピエロ(以下スカルペリーア)も、そうした宿が数々あるエリアだ。

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スカルペリーアの旧市庁舎は15世紀に歴史をさかのぼる。サンピエロ町と合併する前は、長く市役所として使われていた。


人口1万2千人のこの村は、高級ナイフ産業で知られる。毎年秋に開催される「ナイフ祭り」では、多くのプロやアマチュアが自らの作品を展示・販売するほか、遠くアメリカなど海外からも人々が訪れる。

一部工程の外注化が進んだなかでも、市内で全工程を手掛けている数少ないナイフ製作工房「フォンターニ」は、アレッサンドロ氏とヤコポ氏という2人が営んでいる。

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カスタムナイフ作りを生業とするアレッサンドロ・フォンターニ氏(右)とヤコポ・ガニャルリ氏(左)。全工程を手掛けられるナイフ職人としては、町内で最も若い。


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2人が手掛けるブランド「フォンターニ」。小さな店内だが、オーダーは世界中から舞い込む。

なぜナイフなのか?を地元の人に聞くと、意外にも地理と関係があった。

旅人の必携品から

2人は店の前を通る1本の街路を指した。一方通行路と、左側に縦列駐車用のゾーンがあるだけの道だ。しかし、それは、れっきとした県道である。
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スカルペリーアの旧市街を南北に貫く一方通行路は、実は県道である。

彼らは説明する。「これはフィレンツェと北のボローニャを結んでいた、まさに旧街道です」。
フィレンツェが栄えた15世紀に旅人に往来が盛んになったのにあわせて、周辺に宿が増えていった。

16世紀に歴史をさかのぼる旧市役所・ヴィカーリ宮殿には、古来から旅人の安全を守る守護聖人として崇められ、今でもたびたび日本でいうところの交通安全ステッカーにもなっている「聖クリストフォロス」のフレスコ画が残る。

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スカルペリーアの旧市庁舎入口に描かれた聖クリストフォロス。伝説では、幼いキリストを担いで川を渡ったという。

ボローニャとの間には、今もアペニン山脈が横たわり、スカルペリーアは、それを超えるジョーゴ峠を前にして最後の町であった。

旅人たちは、住民が自ら作り、農作業や食卓で使っていたナイフに注目。そして携行した食材を切るなどのためにナイフを買い求めるようになった。
そのためスカルペリーアではナイフ作りが盛んになり、その高いクオリティは各地に伝えられていった。
碓氷峠の麓・群馬県横川の弁当が「峠の釜めし」であることからすると、こちらはさながら「峠のナイフ」である。
町内には古い刃物工房跡もあって公開されている。案内してくれたガイドによれば、個々の工房が家族やごく少数の職人で営まれていたのは、技術の流失を防ぐためだったという。

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20世紀初めから1970年代まで使われていた刃物工房跡。


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工房跡に残されている当時の工具。


その後、複数回にわたる大地震や、18世紀中盤に開通し、今日でもヒストリックカー・ラリー「ミッレミリア」のコースになっているフータ峠が開通すると、スカルペリーアは衰退する。

しかし、1861年に半島が統一された後に誕生したイタリア王国は、パリ万博などに参加し始める。そうしたチャンスに、スカルペーリアの刃物職人たちは積極的に出展し、国外に市場を開拓した。

 

近年は、前述のように、より手工芸的なカスタムナイフ志向を強め、世界のファンの垂涎の的となっている。フォンターニの2人も、1本を仕上げるのにおよそ3週間をかける。

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フォンターニによるカスタムナイフから。ケースは水牛などの角から作る。


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こちらは同じフォンターニによる髭剃り用ナイフ「バーチャミスービト」。Baciamisubitoとはイタリア語で「すぐにキスして」の意味。


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彼らの店は、500年以上もの間、人々が往来した街道に面している。

ちなみに今日、同じ区間は“アウトソーレ(太陽の道)”の別名をもつ高速道路A1号線を用いる。
フィレンツェ-ボローニャのインターチェンジ間は、クルマで僅か30分ちょっとである。
いっぽうで当時は、道を阻む枝を切り落としたり、場合によっては出没する盗賊から身を護るためにもスカルペリーアのナイフを買い求めていたという。
旅が、今とは比べ物にならないくらい冒険に満ちていた時代。はからずもそれに思いを馳せたサーキットの里だった。

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スカルペリーアの町内で。イタリア自動車クラブが20世紀中盤に貼り付けたと思われる道路標識が今も残されていた。
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大矢アキオ ロレンツォAkio Lorenzo OYA在イタリアジャーナリスト/コラムニスト/自動車史家。音大でヴァイオリンを専攻。日本の大学院で比較芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。自動車誌...
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